■「智恵子抄」 高村光太郎■
2016/06/28
東京って星が見えないね。
と娘が言い、私は夜のはじまりの空を見上げた。
智恵子は「東京に空が無い」って言ったのよね、故郷の空がほんとの空だって。なんだかわかるよね。
そんな会話をきっかけにその夕食時の話題は「智恵子抄」となった。
彼女は伝記を読んで知っていたからわりと楽しく会話ができた。私は親子関係であってもなんであっても、一方的というのが嫌い。
自然、その夜の読書は、「智恵子抄」。
詩にもこころをつかまれるが、愛妻智恵子が亡くなって二年後に光太郎が書いた「智恵子の半生」は落涙せずには読めない。
いまとなっては、智恵子が精神を病み、亡くなったのは、女性が芸術に人生をかけることが困難な時代とか、才能ある男と結婚した才能ある女の不幸とか、そういうものが大きく、光太郎そのものの存在が智恵子の死を招いたとまで考えているけれど、そしてそれを不幸なことととらえてはいないけれども、やはり、智恵子と光太郎の、光太郎が書いた智恵子との関係性には、なにかすがりつきたいような光がある。
光太郎は、
「この世で智恵子にめぐりあったため、彼女の純愛によって清浄にされた」と言う。
そして光太郎にとって智恵子がどんな存在だったのか、次の文章がみごとに表現している。
「美に関する製作は公式の理念や、壮大な民族意識といふようなものだけでは決して生れない。
そういうものはあるいは製作の主題となり、あるいはその動機となることはあっても、その製作が心の底から生れ出て、生きた血を持つに至るには、必ずそこに大きな愛のやりとりがいる。
それは神の愛である事もあろう。大君の愛であることもあろう。また実に一人の女性の底抜けの純愛である事があるのである。
自分の作ったものを熱愛の眼をもって見てくれる一人の人があるという意識ほど、美術家にとって力となるものはない。
作りたいものを必ず作り上げる潜力となるものはない。
製作の結果はあるいは万人の為のものともなることがあろう。
けれども製作するものの心はその一人の人に見てもらいたいだけですでにいっぱいなのが常である。
私はそういう人を妻の智恵子に持っていた。」
この箇所は、創作というものにたずさわった経験をもつ人なら、何も感じないで読むことはできないだろう。
ずっと前に、智恵子と光太郎の関係について友人と話していて、
「あーあ、光太郎みたいな人いないかなー」
「いても智恵子みたいじゃないと愛されないのよー」
「じゃあむりだー」
なんてことお互いに言い合っていたことを懐かしく思い出す。
そう。智恵子は光太郎がそうしたような愛し方で愛されるべきひとだった。
愛される理由があった。
「単純真摯な性格で、心に何か天上的なものをいつでも湛えており、愛と信頼とに全身を投げ出していたような女性であった」
「彼女がついに精神の破綻を来すに至った更に大きな原因は何といってもその猛烈な芸術精進と、私への純真な愛に基づく日常生活の営みとの間に起る矛盾撞着の悩みであった」
「精神上の諸問題についても突きつめるだけつきつめて考えて、曖昧をゆるさず、妥協を卑しんだ。いわば四六時中張り切っていた弦のようなもので、その極度の緊張に堪えられずして脳細胞が破れたのである。精根つきて倒れたのである」
「思いつめれば他の一切を放棄して悔まず、いわゆる矢も盾もたまらぬ気性をもっていたし、私への愛と信頼の強さ深さはほとんど嬰児のそれのようであったといっていい。私が彼女に初めてうたれたのも、この異常な性格の美しさであった。言うことが出来れば彼女はすべて異常なのであった」
そして光太郎は智恵子の異常を愛した。
「異状」ではない、「異常」な性質を。
智恵子が生まれたちょうど80年後に私は生まれた。
智恵子は52歳で亡くなった。
「智恵子抄」のなかで私がいまとても好きな詩は「亡き人に」。
ラストだけ紹介。
私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる
あなたはまだいるそこにいる
あなたは万物となって私に満ちる
私はあなたの愛に値しないと思うけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ