■「お梅さん」 オノト・ワタンナ 中田耕治訳■
2016/06/11
机の上に置いておいたら、娘が「この絵、好き」と手に取った。
すごく綺麗、としばらく眺めていた。
その絵を描いたのは吉永珠子さん、娘の学校の卒業生なのだと言ったら、嬉しそうだった。
中田耕治、翻訳最新刊。
1875年カナダ生まれの閨秀作家の処女作、という意外性。「あとがき」で作家は書く。
「私は、いまの日本語に欠けているものを表現することによっておのれの翻訳の価値が生じると思っている。
日本語が失ったものについて、私がはっきりした知識をもっている最後の世代だからだろうか。
私たちの失ったものはけっしてわずかなものではない。だから、私は自分に欠けたものをアメリカの一少女の作品をつうじてあらためて見つめようと試みたに過ぎない」
日本語の深さというものにふれることのできる本。けれど、内容は小難しくない、いわゆる純愛。
「愛」に殉じたひと、「愛」に身を投じたひと、自分がすっごく汚れていると泣きたくなるほどに、この物語世界のなかにはまっすぐな愛があった。
そしてところどころ、はっとする言葉に出会う。
物語を切り離して、それが言葉として力をもつという表現力のなせるわざ。
いくつか挙げると。
「心から愛する人が自分に不信をもったり苦しんだりすれば、ナイフで切りつけられたような痛みをおぼえ、心が締めつけられる。ところが、相手を愛していない場合は、いらだたしいだけなのだ」
「愛するとなれば身も世もあらず愛するか、まるで無関心なままか、はげしく憎むか、いずれしかない」
「女の魅力をすべて知りつくしたと男が思った瞬間、愛というものは冷めはじめる。愛情があれば、たえず相手の新たな魅力を発見しつづけるものだし、さらにいえば、すでに知りぬいたはずの魅力さえ、つねに新しく感じられるものなのだ」
「ひとを恋すると、いたるところで、生きとし生けるものすべてに愛情をそそぎ、しあわせをわかちたくなる」
たかが恋愛、されど恋愛。
命を奪うほどの力をもつ、恋愛という魔力。
そんなことを想い、からだがふるえる朝。