■魂は恥を知らない、って彼は言う。
週明け、全身疲労まみれのなか、それでも一気に読んだロジェ・バディムの回想録がとても面白かった。
「女」を「最高にいい女」につくりあげる男として有名な映画監督(1928〜2000)。
「恋愛はわが人生最上のもの。全人生、全作品を恋愛のために捧げて悔いない」
ナチスの占領から戦後にかけて、「人間の醜さ」「人生の苦渋」を嫌というほど見たから、彼は自分に掟を作った。
その掟とは。
「人生で楽しめるものはすべて楽しむ」。
回想録を読んで、バディムがとにかく女性にもてるその理由がわかった気がした。
そのときそのとき、彼は真剣なのだ。真剣に愛する。真剣に愛することと、たった一人に貞操を誓うということはイコールではない。
実際、その生涯を多くの美女たちが埋めつくしていて、そのうちの3人はスターになる前のブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダ。
彼女たちはみな、バディムとの恋愛において、花開いた。より美しくより艶やかにより魅力的に、そしてスターになった。
彼の回想録は、もちろんすべてが女性たちの事実と一致するわけではないだろう。
自分に都合よく解釈し都合よく書いているだろう。回想録とはそういうものだ。
それでも、文才もあるから面白くて、ハッとする箇所がいくつもあった。
たとえば、カトリーヌ・ドヌーヴとの恋愛において。
「裏切られているという確信よりも、嘘や、嘘に近いことの方が私には耐え難い。多くの人たちとは違って、私は知ってしまうほうがよい。男女の間に毒を生むのは疑いである」
だから。ある男との関係を疑っていたときカトリーヌに尋ねた。彼に恋しているのか、と。
カトリーヌは答えた。変なこと言わないで。仲のいい友達で、ただそれだけよ。
バディムは書く。「こういう言い方を私はいつも一番怪しいと思っている」。
ほんと、その通りよ。
またずっと後になって、別れたカトリーヌから心情を吐露した手紙が届き、それに感動したバディムは、容易に自分を見せないカトリーヌにしては珍しかった、としてこう書く。
「彼女は心の乱れに身を委ねることは品位のない行動であると信じていた。実は逆で、自分の弱さを率直に外に出すのは、強くて心の寛い人間の特権なのだ」
たしかに、そうかもしれない。
また、それに関して次のように言う。
「魂は隠れるようにはできていない。本質的に外に溢れ出し、光を放つものなのだ。魂は恥を知らない」
魂は恥を知らない……か。どうなのだろう。
魂が恥知らずなのだとしたら、私はそれを、魂以外の部分で抑えているということか。ほかの人たちはどうなのだろう。
たとえば、ジェーン・フォンダとの恋愛において。
「自信に満ちた外側の姿と内面の弱さ、真の自己をひたむきに求める姿に惹かれた。そして私たち二人は肉体的に完全に合っていた。性の悦びはたしかに、体の特定の部分の感受性ばかりではなく、それど同程度に知性にも支配される。この方面でジェーンは素晴らしかった。天性のものに加えて天真爛漫とでもいったものがあって、悦びに魅力を添えた」
肉体の悦びには知性が必要。
これについてはどうかな。相手によるような気もする。いや、自分自身の好みの問題か。組み合わせか。私はバディムに賛成だけど。
ロジェ・バディム。72年の人生。
数えきれないほどの出逢いと恋愛、結婚、別れ。
読み終えたあと、しみじみと感じたのは、共感であり、こういう男に共感を覚える私には、たったひとりのひとと、死ぬまで、たったひとりのひとと、なーんて生き方、望むこと自体に無理があるのだわ、ということ。
そして、たいせつなのは今現在。今現在に真剣に向き合おう、見つめよう、ということ。
このところ、心身が不安定で、心もとない。この季節は毎年そうみたいだけど、だからといってなんの気休めにもならない。毎年毎年、こんなことばかりは新鮮なんだから。
なんにもできない気がしてくる。自分がいかに取るに足らない人間なのか、痛感する。いま手がけているすべての仕事について疑問がわいてくる。どこかに行ってしまいたくなる。でもその先には猛烈な淋しさしかないことも、わかってしまっている。
ジェーン・バーキンの言葉を言い聞かせる。だいじょうぶ、だいじょうぶ、明日はまた別の日だから。って。