■■「私は疲れた」■■
2016/06/11
ひとつの原稿がなんどかの細かい区切りのあとで最終的に完成をみたあと、あの危険な脱力がやってこないように、今回は注意深く過ごしたつもりだった。
すぐに次の原稿にとりかかったりして。
それがかえってよくなかったのか、深海からなかなか浮上できない日々を過ごしてしまった。
慣れているとはいえ、「慣れている」なんて言えるのは「浮上」した後のこと、そのときは、思考停止状態。
ただただ、力が入らず世界で一番のネガティブ女になる。
そんな選手権があったら優勝間違いなし、という状態。
そんなとき、思い浮かべる絵がある。国吉康雄の「私は疲れた」という一枚。
最高のタイトル、そしてタイトルを重く重く感じさせる絵。
国吉康雄は17歳のときにアメリカに移住し、アメリカで活躍した画家で、この絵もホイットニー美術館に収められている。
山梨俊夫氏がこの絵に寄せた文章、ある部分がとても面白い。抜き出してみる。
「すばらしい美人でもなければ、華やかな世界にいるわけでもない。
きょう一日もなんだか思いとは違ったふうに過ぎてしまった。
そしてこれからも生活の変わるあてもない。
いい男との出会いや恋も、生の単調さに呑みこまれてしまう。
都会では、人間同士のつながりも、うっとうしくない代わりに、はかなく不安定なものばかりだ。そんな境遇に身も心も浸しながら、それでもわずかな慰めを糧に生に耐えていく女たちが、国吉の絵の主人公である。」
いいなあ。
「わずかな慰めを糧に生に耐えていく女たち」。
しっくりくる表現だなあ。「生に耐える」って。
ようやく浮上してくると、あれもこれも書きたいと欲張って眠るのがもったいなくなる。
そして深海時代に迷惑をかけた娘や、近しい人々に「ごめんねごめんね」とお詫びのしるしの品をもって、謝りたくなる。私の人生、こんなのの繰り返し。