■■絶望と諦めについて考える土曜日■■
2016/06/10
五月下旬に発売予定の本の帯を編集者さんと考えて、そのなかで「絶望」という言葉を使うことになった。
本文の中でも、いっぱい出てくる言葉、「絶望」。
全体的に漂っているのが「諦め」。
あれ。たしかこの二つについて辻邦生が書いていたはず、と夜中に思いつき、歴代のノートを繰った。1998年頃のノートに発見。
辻邦生の「愛、生きる喜び」からいくつか書きうつしていたなかにあった。
これは数多くの小説のなかからひろった言葉を集めた本だったような気がしているけれど、どうだったかな。
お目当ての文章は「ある生涯の七つの場所」という壮大な物語(短編がいっぱい)のなかの「夜の歩み」という短編にある言葉だった。
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「絶望と諦めはそんなに違うかな?」
「違うわ。それは心の方向(むき)がまったく違うのよ。絶望は、希望から見放され、見棄てられた状態なのよ。それはこの世から追い出されたようなものよ。地面が捲きとられて、真っ黒な虚空に立つのに似ているわ。泣いて泣いて涙が枯れたときに残る痛みのようなものだわ」
「たしかに絶望は、落下してゆく檻のようなところがあるね。それに較べたら、諦めは静止している檻なのかもしれないね」
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どっちが先なんだろう、絶望と諦め。
そういう問題じゃないのかな。けれど、私の場合は、絶望を何度も味わって、味わって、味わって、少しずつ諦めを知っているような気がしている。
そして、それはそんなに悪くないかんじなのが、意外。
昨夜はデザイナーさんからいただいたデータをプリントアウトして家に持って帰って、どのカバーの色がいいかなー、と娘とあれこれ話した。
どんな本を書こうかと、その方向性、テーマみたいなものを決めているときは楽しい。
資料集めなどをしているときも、楽しい。
原稿書き始めると苦しい。
原稿書き終えると嬉しい。
校正中、次第に不安になる。
たまに、本気で「やっぱり出すのやめよ」なんて思う。
「これが最後の校正です」のときは、活字を追えないくらいに不安で逃げたくなる。
カバーの打ち合わせは楽しい。
すべてが自分の手から離れて、あとは見本がくるのを待つだけ~書店に並ぶまで、は、もうどこかに行ってしまいたくなる。
今は「これが最後の校正です」中。心臓がばくばくする。一文字一文字に魂がこもっているか、確認したいのに、うまくできない。
けれど、これにとりかかっているときは、絶望とも諦めとも、ちょっと違う空気のなかにいる。
世間はゴールデンウイーク。私には関係ない。ただ、お弁当クラブがお休みなのが、嬉しい。