■ある出来事と自分への失望と
超低空飛行が続いてどうにもならない数日間を過ごすなか、ずっと前にした婦人科の予約があって、久しぶりに午前中に出かけるということをした。検査だから大したことないんだけど、そのクリニックは人気らしく、いつも混んでいる。予約制なのに、30分待つことは当たり前。受付、診察、清算までにいちいち時間がかかる。近くでほかによさそうなところがないので今回も覚悟して出かけたのだが、クリニックに入ってからそこを出るまで2時間かかった。
普段なら本を読んだり原稿を直したりして時間を過ごすのだけど、なんにもする気にならない精神状況なので、クリニックの雑誌も手にとらず、ひたすら、ぼんやりしていた。
ぎゅうぎゅうの待合室、受付近くのソファに私は座っていた。
検査を終え、清算を待っているときだった。
受付のところで甲高い女性の声。
「じゃあ、私がここにこなければ、そのお金はどうなっていたのよ?」
とっても大きな声なので聞こえてきてしまう。
どうやらその女性は半年以上前にクリニックを訪れ、そのときに、クリニック側のミスで余分にお金を払っていて、今回それをお返しします、ということに対しての抗議。
「連絡すべきじゃないの? 私が来なかったらそのままになっていたということでしょう? それっておかしいと思わない?」
観察すると、服やシューズ、バッグなどからして、裕福でおしゃれに対する意識は高い。歳は、たぶん私と同じくらい、かな。
対応している受付の女性はたぶん30代前後。かわいらしい顔、かわいらしい声で、ひたすら「もうしわけございません、今後の対応を検討します」みたいなことを繰り返している。
けれど、そこには彼女の感情はない。ただ、ひたすら、ことを荒立てないで、おそらくマニュアルとして学んだ対応を繰り返している。こわいくらいに感情がない。
女性の抗議はエスカレートしてゆく。
「だいたい、ここの予約ってどうなっているのよ? 一時間も平気で待たすなら予約って何のためにあるのよ? 前回もそうだったし、今回もそう。私の知り合いも同じことを言っていた、システムをちょっと考えたほうがいいじゃないの?」
私はこころのなかで大きく頷いていた。再び訪れなければ余分なお金を払ったことすら知らなかったというのはおかしい。
それに予約の件に関しても激しく同感。
私は彼女の後ろ姿と、それに対応する受付の女性のやりとりを、じーっと見ていた。
ふたりのおそろしいほどの温度差を。
びっちりの待合室。
ふと見渡してみてびっくり。
誰一人として、私のようにその様子を見ている人はいない。携帯を見たり雑誌を見たりして、そこで起こっていることと異空間にいるかのような様子なのだ。
すごい、こんな大騒ぎが身近で起こっているのに、しかも、クレーマーとかではなく、正当なことを彼女は伝えているのに、どうして、こんなに平静でいられるの?
抗議している女性は、ただ、残念なことに、言っていることは私も同感なのだけれど、その表現の仕方ががとってもヒステリックだった。きんきんわめきたてる、ってかんじ。だから印象はけっしてよくないし、私もお友だちにはなりたくないタイプ。
でも彼女が「もう二度と来ないから安心してっ」と、クリニックを出たとき、私は拍手を送りたかった。でもなんの反応もしなかった。その点で私は、内心どんなにそのやりとりに反応しようと、平静に見えるほかの女性たちと同種の人間なのだ。
無関心。
自分にがっかり。失望した。と同時に、やはり、オードリー・ヘップバーンが言ったように、言葉というものは、内容だけでなく、どのように伝えるのかが大事なのだということを痛感していた。そう。歌のように、歌詞だけではなくメロディもたいせつ、ということ。
もし、抗議している女性が、もっと違うメロディでその内容の歌詞を歌ったなら、私は、もしかしたら、勇気を出して拍手を送れたかもしれない。いや、小心者だからなあ。できなかったかな。
それにしても、言いたいことをあんなにはっきり言えるひとはすごいと思う。私は、大抵のことに諦めてしまっているから、言いたくってものみこむ。
そして、のみこみすぎて、おなかいっぱいになって、吐き出すまでの時間が、時とともに長くなっている気がする。
そこにあるのは諦めだけではないような気がする。
気力がないから? 愚鈍になっているから?
それすらわからない。
切実に願うのは、どうか、どうか私。それに慣れすぎて、ほんとうに言うべきとき、ほんとうにたいせつなものを守るべきとき、無音にならないで。沈黙しないで。ということだけだ。
超低空飛行が続く毎日のなかの10分間の出来事。
このところ、しかたがないから、ひたすら本を読み、ひたすらに映画を観て過ごしている。
SNSを覗くと、同じ表現者として活動しているひとたちの活力に圧倒される。私には何ひとつ発信したいものなどない、なんの価値もない、中途半端な人間なのだ、と落ちこむ。
そして、この状況は、どんなに周囲のひとたちが愛を注いでくれてもどうにもならないことを知っている。ここから私を浮上させることができるのは私だけ。
でもこうして久々にブログなどを書こうと思ったのだから、浮上は始まっている、と思うことにしよう。
映画『クリスマス・ストーリー』のワンシーンがふと浮かぶ。
ニーチェの「道徳の系譜」を登場人物のひとりが読み上げる。「我々にとって我々自身が未知なのだ」。
未知すぎてくるしいよ。
***
*絵はクノップフの「沈黙」。