■■恋は懲らしめ……■■
2016/06/09
久しぶりに須賀敦子『ユルスナールの靴』を読んだ。
美しい文章は、あたまのなかの汚れたものを拭いとってくれる、そんなかんじがする。
そんなふうにこのところ強く感じるものだから、ラインをたくさん引いてしまった。
そのうちのいくつかを。ユルスナールの『火』から。
これはユルスナールの「狂気に触れる」ほどの激しい恋が不毛に終わったあとに、生まれた作品。
だからか、胸に迫るものがある。
狂気にふれるほどの恋を経験したと思えている人にとっては、たぶん。
「なにも恐れることはない。わたしはどん底に触れた。あなたの心よりも低いところに落ちることはできない」
「恋は懲らしめに似ている。わたしたちはひとりでいられなかったから罰せられているのだ」
私は、恋をしていないと書けませーん、とか言っているけれど、もちろんこれはつねに誰か特定の人と恋愛をしている、というわけではなく、恋から離れないでいるということだ。
そして、恋愛の最中はたいしたものは書けない。
狂ったようなメモは残せるけれど、それが作品として結実するのは、長いときが経ったあと。
それにしてもユルスナールの表現は秀逸。
「なにも恐れることはない。わたしはどん底に触れた。あなたの心よりも低いところに落ちることはできない」なんて思い出し笑いじゃなくて、思い出し泣きができるくらいでしょう。
そう、「なにも恐れることはない」と思えることの、あの絶望。
「恋は懲らしめに似ている。わたしたちはひとりでいられなかったから罰せられているのだ」
あの苦しみは、懲らしめられているんだって、罰せられているんだって。
ひとりでいられなかったから、罰を受けているんだって。
マリリンは自由でなければ息ができなくなっちゃうひとだったけれど、ひとりではいられないひとでもあった。だからあんなに苦しんだのかな。まるで他人事のように書いている私はずるいな。
ひとりきりになりたくて、叫びたくなることだってあるのに、ひとりきりがさびしくてさびしくてどうにもこうにもならないときがある。自分がうとましい。仕事まみれの夏の盛り。