■■ぶっこわれたカンパネラ■■
2018/07/09
今年のはじめから取り組んでいた本、ようやく脱稿した。
今回のは処女作以来の絵画に関する本。いろんな想いがあって、というか、たぶん、すねて、意識的に最近の売れている美術本を読まないようにしていたけれど、今回、原稿を書くにあたって、たくさんの資料本を読んだ。
その上で、私なりに一枚の絵と向き合って、書いた。
ところが校正の段階でいくつもの再確認事項が出てきた。制作年代であるとか、絵画の正式名称だとか、そういうこと。
校正にとりかかっているうちに、とてもこわくなってきてしまった。根本的なところで。
だいたい、専門家じゃないのにさあ、絵画本なんて出していいわけ?
また、ミューズの本のときみたいに、色々と批判されるんじゃないの?
いろんなこと好き勝手に解釈して書いちゃったけど、傲慢じゃないの?
とまあ、ほんとうに根本的なことだ。そしてこういったことは、なじみの現象でもある。
脱稿直前、大きな不安に襲われて、すべてを回収して、なかったことにしたい、みたいなかんじ。
そこにプラスして、今回はあたった資料はじゅうぶんだっただろうか、みたいな不安が加わった。
数日、とても落ち込んで、いつも以上に、くらーい気持ちで過ごした。
そんなある朝。いつもの憂鬱な歩道橋(自宅と最寄り駅の中間にどーんと存在する、これさえなければ、といつも思う歩道橋)を歩いていたとき、ふと、青い空から、あるセリフがすとん、とおちてきた。
「ぶっこわれたカンパネラでいいじゃない」
そう、好きなピアニスト、フジコ・ヘミングの言葉だ。
彼女が得意とするリストの「ラ・カンパネラ」。
正確に弾くことではない、どのようにそれを表現するか、それが重要。
機械じゃないんだから、そのときの心身の状態で当然、変化していい。
そういう意味に受け取った。
この言葉を胸に刻みつけたのは、たしかおなかが大きかったときだから、もう15年くらい前になる。ときどき、なにかのひょうしに、思い出す。
歩道橋の上で、私はとつぜん元気になった。
ぶっこわれたカンパネラでいいじゃない。
そう、いいじゃない、重要なのは、私が何を伝えたいのか、表現したいのか、そこだ。
そのように覚悟を決めたら、原稿にラスト・エナジーをつよく投入することができた。
そして私が手を入れられる最後の原稿が送られてきた。その原稿は、プレゼントつきだった。写真がそれ。
「山口先生! あと少しです!!」
担当の徳間書店の唐川知里さんのお心遣いに、そのおちゃめなかんじに、笑いながら、胸をうたれた。
どうしても使えなくて、自宅のデスクの上に飾ってある。一緒に本を作っている実感がある、この幸福感。
*のちの注:この本が「美男子美術館」です。