■望む自由と望まない自由と
「人は歳をとるにつれて多くのことを学ぶ。
自由にしても自分が過去にもっていた自由、いまある自由、自分が望まない自由、いろいろあると思うの。とくに自分が望まない自由というのは、とても重要なものだと思う。
というのは本当の自由というのは望む自由と望まない自由の狭間にあるものだと思うから」
これ、カトリーヌ・ドヌーヴが言ったこと。74歳のときの言葉。
これが響いて、眠れない。
ベッドから起きだして階下に降りてこれを書いている。
わかるような気がするし、わからないような気がして。
でもいまの私には、望まない自由が多い気はしている。だから眠れないのだと思う。
望む自由はある。でも望まない自由が多いから不安定なのかもしれない。ここのところ、落ち着かない要因がそこにあるようで、自分でも信じられない人に信じられないメッセージを送ったりして、私は何をしているのか、と自問する。
軽井沢にいたころとくらべて、といっても、もう10年くらい前の時代なんだけど、あのころは自由にここに書けていたことが書けなくなっていることへの苛立ち。
このブログには、詳細はともかく、そのときそのときの心情を仮託という方法で綴ってきたのに、それも躊躇われる。これは不自由なこと。
環境を変える必要を痛感している。私はいつもそうだ。慣れが嫌だ。飽きることがなによりおそろしい。
とにかくいまは新刊の原稿を、いまの精一杯で仕上げて、それから少し考えたい。
そうでないと、それこそ私がもっともなりなくない人間になってしまいそうで。
外は明るく、車の音がさわがしい。1日が始まろうとしているのだ。
私は、ものわかりのよい人間のふりをして、愛情深い人間のふりをして、でもその根底には諦観があり、ひかりある未来を見つめようと努めてはいるけれど、努めている時点で違う気がする。
ここ数日の落ちこみはひどかった。今日はくるったように、休息なく原稿を書き続け、考え続け、こんなに仕事したのだから眠れるはず、と娘の寝顔を見てベッドに入ったのにね。
いま私が欲しいのは、私を寝かしつけてくれるひと。しらないうちに薬なしで眠りにおちること。