■モローとルオーと愛しき人■
2020/11/24
「モローとルオー ~聖なるものの継承と変容」。
パナソニック汐留ミュージアム。
久しぶりに国内の美術展に出かけてみた。
絵に関する本などを書いているから、しょっちゅう美術展に出かけているように見えるみたいだけど、違う。
国内の企画展はちょっとかたくるしくて苦手。
混んでいたらもっと嫌。
混んでいるのが好きな人はいないだろうけれど。
それに順路順守ムードも嫌い。
モローもルオーも私は好き。
絵を観ながら、でも私はずっと、パリのモロー美術館のことを懐かしく思い出していた。
生前に、自分で自分の美術館を作ったモロー。
邸をそのまま美術館にしてしまったから、そこに足を踏み入れると、なんとも言いがたい空気につつまれる。
壁一面にだだだだと展示された作品のなかには、未完のものも多い。画家の意志によるものだ。
今回の美術展にも未完成のものがあった。
未完成のものを見せるというのはどういうことなのだろう、と考えた。
自分が成し遂げたかったこと、のなかにも見せるべきものがあるということなのか。
下絵とかデッサンとか、有名画家になるとそういうのも公開されているけれど、生前に本人が承諾した場合は除いて、亡くなったあと、本人の意思に関係なくそういうのも公開され、美術館に展示されたり画集に掲載されている画家のなかには、もしもそれを知る機会があったら、(精神世界の話になるけれど)、嫌だなあ、と思う人もいるだろうなあ。
そんなことを考えた。
人生において私は結果より経過を重視する。
その人が何をなそうとしていたのか、目標にむかってじたばたしたりあがいたり、諦めそうになったり希望をもったり。
そういう人間の熱みたいなものが愛しい。
けれど、それが芸術作品となると、芸術家自身が納得した完成品というものに価値を見る。
モローの弟子にあたるルオーは、なかなか作品が完成しない人だった。
納得できなくて絵具を何度も何度も塗り重ねた。
その姿を想像すると、愛しい。けれど作品としては完成品を見たい。
これって矛盾しているのかな。要求過多? わがまま?
パリのモロー美術館を訪れたのは、たしか1993の冬。
一人のパリだった。わあ、もう20年前だ。その翌年だったかな、再訪したのは。
時間旅行のメンバーの方々と一緒だった。今の100倍くらい傲慢だった20代後半のこと。