ブログ「言葉美術館」

■モローとルオーと愛しき人■

2016/06/02

R「モローとルオー ~聖なるものの継承と変容」。 パナソニック汐留ミュージアム。 久しぶりに国内の美術展に出かけてみた。 絵に関する本などを書いているから、しょっちゅう美術展に出かけているように見えるみたいだけど、違う。 国内の企画展はちょっとかたくるしくて苦手。 混んでいたらもっと嫌。 混んでいるのが好きな人はいないだろうけれど。 それに順路順守ムードも嫌い。 モローもルオーも私は好き。 絵を観ながら、でも私はずっと、パリのモロー美術館のことを懐かしく思い出していた。 生前に、自分で自分の美術館を作ったモロー。 邸をそのまま美術館にしてしまったから、そこに足を踏み入れると、なんとも言いがたい空気につつまれる。 壁一面にだだだだと展示された作品のなかには、未完のものも多い。画家の意志によるものだ。 今回の美術展にも未完成のものがあった。 未完成のものを見せるというのはどういうことなのだろう、と考えた。 自分が成し遂げたかったこと、のなかにも見せるべきものがあるということなのか。 下絵とかデッサンとか、有名画家になるとそういうのも公開されているけれど、生前に本人が承諾した場合は除いて、亡くなったあと、本人の意思に関係なくそういうのも公開され、美術館に展示されたり画集に掲載されている画家のなかには、もしもそれを知る機会があったら、(精神世界の話になるけれど)、嫌だなあ、と思う人もいるだろうなあ。 そんなことを考えた。 人生において私は結果より経過を重視する。 その人が何をなそうとしていたのか、目標にむかってじたばたしたりあがいたり、諦めそうになったり希望をもったり。 そういう人間の熱みたいなものが愛しい。 けれど、それが芸術作品となると、芸術家自身が納得した完成品というものに価値を見る。 モローの弟子にあたるルオーは、なかなか作品が完成しない人だった。 納得できなくて絵具を何度も何度も塗り重ねた。 その姿を想像すると、愛しい。けれど作品としては完成品を見たい。 これって矛盾しているのかな。要求過多? わがまま? パリのモロー美術館を訪れたのは、たしか1993の冬。 一人のパリだった。わあ、もう20年前だ。その翌年だったかな、再訪したのは。 時間旅行のメンバーの方々と一緒だった。今の100倍くらい傲慢だった20代後半のこと。

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