■桃の花と記憶と思い出
「私に保証できるのは現在の私の誠実さだけである」
これって私が書いた? と(かなーり図々しく)思ってしまう文章に出会う確率が多いのは、アナイス・ニン、メイ・サートン、大庭みな子、そしてサガン。
読み返しているサガンの『私自身のためのやさしい回想』。
冒頭の言葉は、サガンたちが「開発」した南仏サントロペの、25年前から現在に至る思い出を語ろうという前の文章。
サントロペは特別な町であり、だから多くの人々のなかに現在においても「思い出の誇大妄想(メガロマニー)」を、「過去に関する偏執狂(パラノイア)」を惹起する。
そんな町の思い出を語ろうというとき、サガンは一度、自分を見る。
「サントロペと私との心情的関係が過去においてどのようなものであったか、現在どのようなものであり、そして将来はどのようなものであろうかということについての悲喜劇を読者に語ろうと思う」
けれど正確さはそこにはないだろう、と言う。
「なぜなら記憶というものは想像力とまったく同じくらい気紛れで予知できないものなのだから。
私はこれから述べることの完全な客観性も完全な真実性も保証しない」
そして冒頭の言葉がくる。
「私に保証できるのは現在の私の誠実さだけである」
ああ。
私はつよく共鳴する。
そしてサガンのサントロペを私の軽井沢に置き換えて、さらに24年前からの思い出に置き換えて、考える。
記憶というものの「気紛れさ」について考える。
それでも、今日という日、自分が何を想っているか、そのことについては誠実でありたいと願う。
今日はひなまつり。
21歳の娘に花を買った。
2020年3月3日。ほかの日と同じ、唯一無二のいちにち。