■緊急事態下日記 ◎Tango アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ
■緊急事態6日目。妄想タンゴと絵を「見る」ということ
2023/09/10
家のなかで過ごすことが増えたひとたちは、家のなかを整えようとする。これはわかる。ニトリとかイケアの売り上げが伸びている、ってなんかの情報で知って妙に納得。
私も、人が訪れることのないブルーモーメントをすっかりひとり仕様に変えた。といってもソファとテーブルの位置を動かしたくらいなんだけど。
それだけでも気分が変わる。こういう些細なことがきっと大事なのだと思う。こんなときは。
このサイトで、新しいこと始めようとしていて、サイトの構築すべてをお任せしている水上彩さんと電話。
有能なライターの彼女に、こんなことお願いしていいのか、私。
いつもそう思いながら、そして今回お願いしたことは、かなーり面倒なこと。でも明るく引き受けてくださって(たぶん、きっと)ほっとする。
ひと通りの打ち合わせを終えて、次は嘆きタイム。
彼女はアルゼンチンタンゴ中毒者のひとりなので、ふたりで嘆き合ったの。
「もうだめ、踊れないフラストレーションでどうにかなりそう」
「もうやだ」
「すでに限界」
「タンゴの音楽を聴くのも危険」
「ひとりレッスンとか、もっと危険」
「いっそのこと忘れてしまいたい」
「それができればどんなにらくになれるだろう」
「苦しすぎる」
「くぅっ」
この会話、どっちがどっち? どちらでも可。おんなじことを言っているから。
まったくね。タンゴはひとりじゃ踊れない。これ慣用句じゃなくてね、つくづく思う。
なんて不便なものを愛してしまったのか私は。
けれど昨夜、途中で放棄していたタンゴの物語を、ワイン飲みながら眺めて、手を入れ始めたら、すっごい濃密なタンゴを踊ったような感覚になって、うっとりとベッドに入れた。
妄想癖がこんなところで役立つなんて。しばらく物語世界でタンゴを踊ることにする。
昨日、中田耕治先生のことを書いて、また今日も中田先生のこと。
『映画論叢(えいがろんそう)』53号。最新刊。先生が寄稿している。
数日前に届いていたのだけれど、「読むぞ!」って状態が整ったときに読みたくて、1日半机に飾っておいた。
「スター 芸術家たち」というタイトル。〜絵筆を持つ俳優たち。キム・ノヴァック、パイパー・ローリー〜
こんなこと書けるのは中田耕治くらいだろうなあ、すごい知識量。というか、このテーマ自体、ほかのひとは思いつかないんじゃないか。いつものことながら、尊敬とか通り越してもう唖然としてしまう。そして知らない名前がいっぱいでてくる。無知な自分に涙。
でもそんなのは気にならないくらい(たいまん)、中田先生の視線は、かぎりなく優しい。そして鋭いの。
冒頭では、イタリアの舞台女優、エレオノーラ・ドゥーゼのことが語られる。「世紀末にかけて、フランスのサラ・ベルナールに比肩する名女優」のデッサンを、のちに有名になるロシアの画家レーピンが描いている。
その一枚のデッサンについて。
***
遠いイタリアからの長旅に疲れて、ホテルのロビーの椅子に腰をおろしてものうげに異国の風景に眼をやっている女優。画家にとって、デッサンは、おのれの詩を対象のあらゆる象面に押しひろげるものなのだ。
彼女は何を見ているのか。見るということは離れて待つということなのだ。絵を描くということも、対象を「もっとも純粋、かつは確固とした現実」として見えるようにすることではないか。わずか一枚のデッサンが語りかけるものは、こちらが耳をすませば、思いがけない響きをつたえてくる。
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見るということは離れて待つということ。
しばし、たちどまって考えてしまう、ひとこと。こういうのがそこらじゅうにあるから、ささっと読めない。
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映画スターや女優たちが、自分の本領ではない仕事(ここでは、絵を描いたり、音楽を演奏したりすること)を継続的に続けている場合、そこには、演技とは別の意欲が働いている、と見ていい。それは、気ばらしであっても、ただの余技であっても、芸術家としての意欲が作用するだろう。
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そしてさまざまなスターたちの人間関係、彼らと芸術のこと、その背景が、まるで中田先生がそこにいたみたいに、自在に語られる。そうして先生の芸術に対する想いも語られる。そうして、ぽつんと、こんな一文が置かれるのだから、ほんと、たまらない。
「一枚の絵。その絵の前に佇むとき、私はいろいろなことを想像する。」
美術館で、ひとりで、一枚の絵に佇む中田耕治先生の姿が、くっきりと浮かぶ。周囲の音や人の気配などはない。中田耕治と一枚の絵。ただそれだけ。
「絵そのものは何かを喚起したりしない。こちらが、その絵をどう見るかということになる。映画を見ることもおなじだろう」
「その絵やその映画を創造的かどうかと見るのは、こちらの問題であって、画家や映画監督の問題ではない」
ああ。
私は中田先生の隣に佇んで、超能力を使って、先生のなかに浮かんだ言葉をぜんぶ聞きたい。