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■30年ぶりの「ローザ・ルクセンブルク」

 

 

 3週間くらい前にマルガレーテ・フォン・トロッタ監督の『ハンナ・アーレント』を観て、このブログにそのことを書いてからむしょうに、同じ監督、同じ主演女優(バルバラ・スコヴァ)の『ローザ・ルクセンブルク』が観たくなって必死に探した。

 バルバラ・スコヴァがカンヌ国際映画祭で主演女優賞を受賞しているにもかかわらずDVDになっていなくて、古書店でVHSを、私にしてはかなり高い価格だったけれど購入(写真にあるのよりも安いけど)。

 ようやく届いて、今日のノルマの仕事を終わらせて、観賞。

 感慨深かった。

 ローザについては『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』(絶版になってしまっている、けれどとてもたいせつな本。36歳のときに出版)で書いている。

 それで、なんどか涙しながら観ていたのだけれど、つくづく、私はローザの思想、ものの見方、人間性が好きなのだなと思った。

 そしてさいきんあらためて読み直したり調べたりしているカミュ、出版されたばかりのサガンもそうなのだけれど、時代を軽々と超えて、私は言いたくなる。

 私はあなたが好きです。あなたの考え方につよく共鳴します、と。

 古書店から購入したVHSには小さなパンフレットが入っていて、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督が映画に寄せたコメントがあった。

 そこには、監督がどれだけローザという人の人間性に魅せられているのかがあらわれていて、その視点がまた、私も同じ、と思わせるもので、何度も読み返した。

 ローザの著作「社会民主主義の危機」と「社会改良か、革命か」を読んでからローザのことが頭から離れなくなってしまったこと。なにより彼女の人間性、女性性に惹かれていること。

 そして監督はローザを知るために彼女の手紙を読んだこと。ローザは監獄生活が長かったこともあって、2500通にもおよぶ手紙を残している。

 監督は言う。

「要するに、ローザの書き残したものは2行であっても、どんな長い伝記よりも私にインスピレーションを与えてくれたのだった。」

 この感覚もよくわかる。

 以下、監督のコメントを何箇所か抜粋してみる。

 ***

ローザが望んだのは「隣人を愛せるような世界に暮らすこと」であったが、「この目的のためには、私はいつか、憎悪を学ぶことになるだろう」と書いている。けれども、彼女は憎悪とは無縁であった。

ローザはあくまでも善良な人間で、文字どおり虫も殺せない人物であった。
「無神経に、残忍にも虫を踏みつぶすような人間は、犯罪を犯しているに等しい」し、「私は同志たちよりによりも、むしろシジュウカラに親しみを覚える」彼女は人間とよりも、自然界との契を強く意識していたのだ。

彼女は、文学、音楽、絵画、生物学(これについては権威である)、そして地質学に興味をもち、そうしたノートには、几帳面な筆跡で書きこみがされている。

彼女は絶えず学ぶ、何をする時にもそうであったように、情熱と熱意をもってそれに取りくんだ。

彼女はまた、苦しみに対して敏感であった。「私の気持ちは服従に傾きやすい。ひとつなぐられると、よく馴らされた動物のように、うずくまってしまう」。しかし、彼女は決してこうした感情に組することがなかった。「私は自分の人生を、より厳重で明快で、品位あるものにしようと堅く決心した」のである。

1914年に、社会民主党が戦争公債を支持したさいに、ローザは友人のクララ・ツェトキン同様に自殺を考えたのだが、すぐにその考えをおしのけた。「もし私たちが自殺してしまったら、誰が運動を続けてゆくのか?」

*** 

 1987年公開の映画だけれど、私がはじめて観たのはおそらく公開から3年後くらい、24か25歳のころに当時ひとり暮らしをしていた聖蹟桜ヶ丘のマンションのワンルームで。
 それから数年以内に何度か観た記憶があるけれど、ざっと30年ぶりの観賞ということになる。

 ローザのような感受性ゆたかで、心優しいひとが、社会をよくしたいという願いをもち、その運動に身を投じてゆくときの葛藤に、今回はとくにこころ揺さぶられた。
 そして人間の善悪について。いつの時代も、ある目的のためには殺人も必要という人と、絶対に殺人はだめ、という人がいるということ。

 けれども、観賞後の感想が大きく変化したということはなかった。

 いま、『うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ』のローザのところを読んだけれど、ほとんど考え方は変わっていない。

 絶版になってしまっているから、ローザのところだけ、書いておきます「感傷にひたることの効能」の章から。

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 数ヶ月後のある朝、ここのところどうも仕事がはかどらない、そろそろなんとかしたいものだ、などと思いながらテラスに出た。賑やかに鳥がさえずっていて、昨夜の雨のなごりが草木にきらきらと輝いていた。空を仰げば、風にむりやりちぎられたような雲がたくさん流れていた。
 その雲の姿に、懐かしい手紙の記憶が甦った。

  そして、空には高く、真中がふわりとした灰色で、周囲が銀色にふちどられて光っている小さな雲の切れ切れがーーどこから集まってきたのかは知りませんけれどーー何万となく一緒になって音もなく北方を目指してただよっています。こうした雲の流れには、なんの屈託もない気楽さと、素気ないほほえみとが溢れていますので、わたしもついついこれに誘われて、自分をとりまいている人生の営みというものに絶えず調子を合わせて行かねばならぬこの身の定めに微笑を洩らさずにはいられなくなるのです。だれがいったい、こうした空を眺めて、「悪意」を抱いたり、こせこせした気持ちになったりするでしょうか?(『獄中からの手紙』)

 二十世紀のはじめ、ドイツ社会民主主義の理論的指導者として、世界史の教科書にも登場するローザ・ルクセンブルクが監獄の中で書いた手紙の一部。
 彼女は「血のローザ」なんて呼ばれるくらい冷徹な革命家のイメージが強いけれど、『獄中からの手紙』からうかびあがる彼女は、かなしいほどに美しく優しいこころをもったひとだった。
 監獄にいながら雲の流れにほほえんで、人間の悪意に想いを馳せる。また別の日の手紙には、薔薇色に輝く夕雲の、「この世ならぬ美しさ」に立ちすくみ、自分の両手をさし延べて、「このような色、このような形がある以上、人生こそは美わしく、また生きるに十分値するものではないか」と考えたようすが記されている。
 マルガレーテ・フォン・トロッタというドイツの女性監督が撮った映画『ローザ・ルクセンブルク』も、この手紙のイメージに近いローザが描き出されていた。

 みずみずしい感性をもちあわせた、こころ優しい、そして理知あるひと。深刻な政治運動の中枢にいたから、普通の女が当然望める子どもを諦めなければならなかったとき、恋人から「君は思想を産むのだ。それが君の子どもなんだ」と、子どもをもつことを拒絶されたときの、なんともよるべない、たたずまい。仲間の弾くピアノ、ヴェートーベンの『月光』に一瞬のやすらぎを求める繊細な横顔。そして自らの理想にむかって歩む、その強い靴音。
 最後は思わず拳をにぎりしめてふるえてしまった暗殺という卑怯な手段で、その生涯を強引に終わらされた、このローザ・ルクセンブルクに私はなぜこんなにも惹かれるのだろうか。革命家としての強靭な姿勢に尊敬の念はあるものの、それだけではここまで惹かれない。

 考えてみれば、私はローザの、流れゆく雲に人間の悪意を思ってこころを痛めるような、どこか感傷的なところに共鳴しているのかもしれなかった。
 こころも生活も平穏なときでさえ、空を流れる雲に、美や人間の存在を思うことなど、ほとんどない。仕事や生活に追われているときなどなおさらだ。なのにローザは監獄にいて、みずみずしい感受性を失わず、感傷的な気持ちで日々をすごしていた。
 そう、『獄中からの手紙』に一貫して流れていて、すくなくとも私が感じとるのは、やはり「感傷」なのだった。獄中で感傷的な日々を送るなかで、そこから生まれたものが何かといえば、おそらく、新たな決意であった。このような美しい空のもとで、ひとびとが苦しむことなく、殺し合うことなく生きることのできる社会をつくりたいという強烈な願い。つくってみせる、という決意。ローザは雲を眺め、感傷にひたり、そこから自分の使命を幾度となく確認したのではなかったか。

 あらためて言葉の意味を調べてみれば、感傷とは、外の世界のさまざまな事柄を自分自身にひきつけて、寂しさや悲しみを感じとることを言う。
「感傷」という言葉の一般的なイメージは自己陶酔的、閉鎖的であるけれど、ほんとうは逆で、外界への扉は大きく開かれているのではないだろうか。
 外界の出来事を自分の身にひきつけて痛みを感じることのないひとこそ、つまり感傷という言葉と無縁のひとこそ、自己完結的で閉鎖的なのかもしれない。たとえば、新聞のニュースで残虐な殺人事件を目にしたとき、遠い国での殺し合いをテレビで見たとき、胸を痛めることがなければ、陰惨な出来事をどうしたらなくすことができるだろうか、という想いも当然生まれない。すべては他人事、外界への扉は閉ざされている。

 雲のかたちからローザに思いをはせ、感傷という言葉を考えて、気づいた。
  感傷を軽視してはいけなかった。慌しい毎日のなかで、そんな暇はない、それにもういいかげん大人なのだからいつまでも感傷にひたっていてはいけない、現実を見なさい、と知らず知らずのうちに自分に言い聞かせていたけれど、それは違った。
 外界の出来事を自分の身にひきつけて、悲しみや寂しさを味わうことが不必要であるはずはない。もちろん、いつも過去に涙したり、雲を眺めて胸を痛めているわけにはいかないけれど、そういったこころの動きが、外界の出来事に反応するこころの筋力を、鍛えてゆくのではないか。

***

 ローザの映画を観たのは、当時好きだったひとにすすめられたから。私を芸術の世界に誘ってくれた彼の影響下に私はいまだいるのだろうか。そんなことを考える夜。

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