◎ラマン愛人 最終章◎
2016/10/21
映画公開時のタイトルは「デュラス 愛の最終章」。
このところ、やたらと思い出すことが多いのでDVDを購入した。きっとこれからも何度か見るだろうと思ったからだ。
3年前はこんなふうに書いた。
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「私を愛してる? あなたが愛しているのは私じゃなく、作家の私よ、認めたらどう?」
66歳のとき38歳年下のヤン・アンドレアと出逢ったデュラスの、最後の愛人と過ごした最後の16年間。
主演がジャンヌ・モロー。
孤独でいれば、愛人に去られる恐怖もないけれど、愛人と過ごす喜びもない。
このあたりのことで揺れながら複雑にヤンを求めヤンを愛するデュラスの姿に、なんども目の奥が熱くなり、ときどき、涙が出た。
デュラスが「世界一美しいシャンソンよ」と言ってかける曲が「カプリ セ フィニ」。
このシーンはもっとも美しい。
そしてドライブしながらハミングする「バラ色の人生」。
私はデュラスの作品にあまり共鳴しないけれど、デュラスが官能に自由なひとだったことには憧れる。
久しぶりに心の真ん中に命中したようなそんな映画だった。
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今回、三年前のときとまったく違うことを思ったわけではないけれど、別のことに胸をつかれてやりきれなくなった。
作家デュラスの最後の16年間。
若い愛人ヤンと過ごす日々、若い彼のことを彼女なりに愛してはいるけれども、ヤンは作家デュラスを愛しているので、デュラスは書かなければならない。
書かなければ愛されない。
書かなければならない? 愛されるために?
違う。
書くことはデュラスにとって生きることそのもの。
だからヤンと出逢う以前、休筆していた彼女は、真の意味で生きてはいなかった。
そしてヤンと出逢い、インスピレーションとエナジーを与えられ、再び書き始める。
そして、それは同時にあるものとの闘いの始まりでもあった。そう思う。
あるものとは、「時間」。
なにか猛烈にやりたいことがあるとき、突如として姿を現すもの。
時間。
これがとても胸に迫った。
ふだんはそれほど意識することのない時間。
容赦なく過ぎてゆく時間。
どんなにその「とき」を愛していようと、抱きしめたいほどに永遠に止めてしまいたいと願おうとも、残酷に冷酷に、ときは過ぎてゆく。
やりたいこと書きたいことがたくさんあるのに、迫り来る終わりのとき。
そこに痛いほどに感じた。
ジャンヌ・モローが演じたデュラスを見ながら私は「時間」をたまらなく愛しく思った。