■美と死と「ネイキッド・タンゴ」
2018/03/28
昨日は、次に書く本のことで色々とすることがあったというのに、ぜんぜん集中できなくて、読み返そうと思っていた本「ネイキッド・タンゴ」を手にとったらたちまちその世界に誘われて、結局、1日中まったくの異空間に身を浸してすごした。
1920年代、パリでは「狂乱の時代」と呼ばれる、私が大好きな時代の、アルゼンチンの娼館とかマフィアとか殺し屋とか、暴力……退廃的な世界が描かれている。
そして、そのどまんなかにのぶとく流れているのがタンゴ。
私が読んだのは敬愛する作家、中田耕治の「ネイキッド・タンゴ」。
そう、中田先生に、2月の半ばにお会いしたとき、タンゴのお話をして、そのとき「僕のネイキッド・タンゴは読んだ?」という質問に、もちろんです、と応えて、でも、ずいぶん前だし、もちろんタンゴを始める前だから、読み返してみようと、本棚からとりだしておいてあったのだ。
これは映画「ネイキッド・タンゴ」(1990年)を小説にしたもので、先生は、映画を観ながらさくさくさくっと書いちゃった、とおっしゃっていた。たぶん先生のことだから1週間くらい、もっと短いかな、そのくらいでお書きになったのだと思う。
映画の監督は「蜘蛛女のキス」の脚本家として知られるレナード・シュナイダー。原作者はアルゼンチンの作家マヌエル・プイグ。プイグはこの直後にエイズで死んでいるのでこれが遺作となった。
それで、小説なんだけど、濃くて濃くて。
名前がふたつあったりしてややこしいから「女」と表現するけれど、ヨーロッパからアルゼンチンにわたったヒロインである「女」が、男社会のブエノスアイレスで信じがたいほどの屈辱や信じがたいほどの陶酔を経験するという話。
「女」が愛してしまう「男」は闇社会で生きていて、自分の命にも女たちにも執着はない。ただ、唯一、タンゴを愛している。
「男」は「女」と出逢って、彼女とタンゴを踊りたいと思う。
その理由は書かれていない。ただ、この女とタンゴを踊りたいと思う。
そしてふたりがはじめてタンゴを踊るシーン。
「女」はタンゴのダンサーではない。
「男」は「女」に目隠しをしてフロアに連れ出す。踊り始めるけれど、「女」はぎこちない。「女」は「男」に言う。なにも見えないんじゃ踊れないわ、と。「男」はきびしく応える。
「からだで見るんだ」
その後の描写を抜粋。
「男の動きは語っている。おれの手を背中に感じろ。脚はおまえの腿のあいだに割って入る。それで、おれの動きがわかる。……おれがお前を調教する。音楽を聴きながら、おれの血の流れを感じるんだ。おれの合図を聴いて、何も考えずにただひたすらからだで応えろ。……おれの手におまえの秘密をひびかせろ。おのれの内奥に潜む音楽を発見するんだ。……すばやい動きがつぎつぎに、あたらしい一瞬、一瞬の官能をつくり出してゆく。」
場面がかわって、「女」について語られる。
「彼女とタンゴを踊る男は、どうしようもないほどの苦しさで“女”をもとめている。タンゴを躍りながら淫らな痙攣におそわれ、やるせないほどの快感が脊髄をつらぬく。」
そんなふうに踊るようになった「女」とふたたび「男」がタンゴを踊る場面。
もうそれって、甘美というより、サディスティックで殺し合いみたいな、そういう快楽。そんななか、躍りながら「女」は「男」に問う。
どうして? どうして、あたしなの、と。
「聴くんだ。答えは音楽のなかにある」
「聴いているわ。あたしを愛してるっていってる」
それからふたりで会話をするんだけど、そこで性愛とタンゴについて語られる。
「男」は言う。
「セックスなんて、みなおなじだ。虚しくなるだけだ。だが、タンゴは違う。虚しさなんか超越している。死さえも。美をきわめることなんだ。おまえのもって生まれた美しさなど、とるに足らない。おまえのつくり出す美しさこそが、価値がある。おまえには、それができる。おれたちはやるんだ。たとえ命を賭けても」
この言葉に「女」は感動する。(ついでに私も。)
そして「女」は思う。
「あたしがもとめていたのはこの男だった」と。
また場面がかわって。
食肉冷凍用の倉庫でふたりが踊るところの描写がすごい。
たしかに、性愛なんてかるーく超えているタンゴをふたりは踊る。ナイフをお互いの喉元につきつけながら、とか。
この場面では、この言葉だけを引用する。
「女」が「男」の視線をうけとめたときの描写。
「もはや孤独ではない。苦しみも消える。タンゴは、深い慰藉(いしゃ)だった。」
ラストシーン。
「女」が撃たれて瀕死の状態。「男」も負傷している。
口からごぼごぼと血が噴き出している。「女」は「男」に言う。
「ひとりで死なせないで!」「あたしを離さないで」
「男」は言う。
「離すものか」
苦痛のなか、「女」のからだをよろこびが貫く。
「あんたに抱かれて、踊りながら死なせて」
そしてふたりはフロアに出て、血にまみれながら最期のタンゴを踊る。
この場面の描写がまたすごいんだけど、一部だけ。
「タンゴを踊っている。
女はこのとき、なによりも裸なのだ。彼女はタンゴを踊りながら、肉体を蔽(おお)うものをかなぐりすてるかのように、自分の魂をあらわにしてゆく。
謎めいた憐憫と、秘かな苦しみと、絶望にみちた甘美さ。
男の力づよい筋肉質の足が、女の脚を割って、見事なリードを見せる。
女はこのとき、ほかのすべての幸福を断念し、ひたすら現世の幸せに身を委ねながら、男の腕に抱かれる。」
「女」はタンゴを踊りながら死に、また「男」も銃撃を受けて瀕死の状態に。けれど最期の力をふりしぼって、死んだ「女」を抱きあげてタンゴをやめない。
ラスト5行。
「男はタンゴにおいて、愛について語りかける。あるいは、死について。男の幸福は、それほどにもタンゴの魂に深くかかわっている。
男と女、世界じゅうでただふたりのタンゴは、いま、はじまり、そしてここにして終わろうとしてる。
そしてふたりのタンゴは、幕を閉じた。」
中田耕治先生……。
先生はタンゴはおやりになっていないと思う。先生のふかさに感嘆し、そして先生と踊るタンゴを夢想した。すごいだろうな。
もちろん、「ネイキッド・タンゴ」で描かれているタンゴについての感覚すべてに共鳴するわけではない。私には私の感じ方がある。
映画もずいぶん前に観たことがある。思い立って動画検索してしたら、字幕はないけれど映画全部観られるのを発見。すべて観てしまった。映像は美しかったけれど、中田耕治の小説は映画を超えていた。
本の一番最初にあった献辞。
「マヌエル・プイグに捧ぐ」
あらためて、この献辞に胸が熱くなった。
……と、以上のような世界に身を浸していたものだから、その夜、階下の「タンゴサロン・ロカ」に行った私は、ぽかん。
ワインを飲みながら踊れて練習もできるという月曜日だったのだけれど、なかなかその気分になれなくて。
なかやまたけし先生に、どうしました?
と問われたけど、先生、そういうわけだったんです。といま告白。
とちゅうからワインの力もあり、タンゴを踊ることを楽しんだけれど、イメージはずっと「ネイキッド・タンゴ」。
「踊りながら死なせて」の言葉があたまから離れなかったので、いつも以上にへんだったかも。きっと、へんだったね。もうちょっと、きりかえってものができるようになるとよいのだろうけど、これがまた私には難しくて。
↓このシーンでかかっている曲で踊りたくていろいろ調べたけど見つからない。どなたかご存知だったらおしえて。
*追記:Jirón porteñoという曲だというのは、クレジットからわかったのですが、このアレンジのがほしいのです。
* YouTubeで「Neked Tango」で検索すると、映画全部が観られるのがいくつか出てきます。「そんな気分」のときにどうぞ。