▽映画 ◆私のアナイス ◎Tango アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」 私のタンゴライフ

■ミステイクとロンダニーニのピエタと桜

2023/09/10

 

 たて続けにタンゴの映画についてのブログを書いたら何人かの人たちからメールをいただき、こんなブログでも読んでくださっている人がいるのだなあ、とすこしとまどいながらもやはり嬉しい。

 「ネイキッド・タンゴ」に関しては、すぐに中田耕治の小説を購入しました、なんて方もいらして、これはほんとに嬉しい。より多くの人に中田先生のお書きになったものを読んでほしい。

「セント・オブ・ウーマン」に関しては、人生にはミステイク(間違い)があるけどタンゴにはない、という意味のセリフに関して、でも路子さん、「深刻な事情があるわけではないけれど私にはどうしても逃避が必要なのです」の最後に、違うことを書いているけれどいまの気持ちはどちら? という問いかけもいただいて、あらためて考えてみた。

 私はその本(タイトルが長いから逃避本、と自分では呼んでいる)の最後にこう書いていた。

「人生と真面目に向かい合う心があって、その心が涙を流して決めた道はまちがっていないはずです。いいえ、まちがいなどない。正しいこともない。まちがいとか正しいとかそんなのは人生にはない。あるのはただ、その人ひとりの生き方なのです。」

 この本の出版は2013年の5月。5年前。

 自分のミステイクから目をそらして、いいえ、そらすというよりはそれをミステイクだとしてはいけないという強烈な想いから、そのときそのときを必死で生きていたころ。

 それからときが経って、私はミステイクを認め、絶望し、自死のかわりに、たいせつにしてきたブログを削除した。

 ミステイクを認めたところからもう一度生きようと思った、なんて、そんな覚悟があったわけではない。ただ一度死ななければと思った。

 だから前向きに行くぞーみたいなかんじであるはずはなく、事実としてそのころの私は精神的自暴自棄の泥沼からぜんぜん抜け出せないでいた。もちろん体調も毎日毎日最悪だった。

 それからまた時が経ち、仕事だけはしていたけれど、人生の真の悦びからは無縁のところで生きていたように思う。真の悦びって、ずん、と胸に響くような、生の実感。愛なんてどこにもない、って確信していたのだから当然といえば当然。

 けれど、だからこそ、そんな状態だからこそ、映画「ラスト・タンゴ」のマリア・ニエベスに、彼女の言葉に共鳴し、「あれは憎しみのタンゴだった」という「憎しみ」という言葉に共鳴し、タンゴの世界にはいっていったのではなかったか。

 歴史にifはナンセンス。そんなの重々承知の上で、でも、あのときあの決断をしなかったら、あのときあの言葉を言わなかったら、あのときあの行為をしなかったら、いま私のなかにある恍惚、生の実感は得られなかったのかもしれない。

 そう思うと、すべてに意味があったのだ、と考えたくもなる。そしてすべてに意味があった、と考えられるような時期は、私の場合、人生のなかでけっして多くはない。いまがそのときだとしたら、ほんとうに瞬間瞬間を、私のすべてで慈しみ、愛したい。

 それをしたところで減るものなどはないし、私は自分のなかのエナジーをどこかに温存しながら生きるようなやりかたに興味はないから。

 そんなシーズンを生きているので、ミステイクについての考えは、逃避本を書いたときと同じ。いまはね。

 

 親友が心身疲れはて、体調を崩し、病院に行ったらお医者さんから「細く長く、という生き方もあるんですよ」と言われたと話してくれた。たしかに、こう体調が悪いとそうなのかも、って気になるわね。いつ死んでもいい、ってところは変わらないけど身体が苦しいにはきついもの、太く短く、って思ってきたけれどね、と彼女は言った。

 でも数日後の電話では「やっぱりそんなの無理だわ。細く長くなんて自分には合わない」と笑っていた。

 私はいろんな女性たち、なにかを成そうとした女性たちのことを書いてきているけれど、そのときにいつも気になるのは、何歳で死んだのだろう、ということ。

 私がいちばん好きなアナイスは73歳。

 あと20年以上もある。長い。

 けれど、アナイスが71歳のときのドキュメンタリー、美しく知性にあふれた彼女のすがたを見ていると、こんな71歳だったら生きていたいと思う。そのとき私は何に美を見て、誰と一緒に時を過ごしているのだろう、誰かを愛しているだろうか誰かから愛されているだろうか。

 そんなことを考えていたときに、あるイベントで久しぶりに「ロンダニーニのピエタ」という言葉を聞いた。

 ロンダニーニのピエタ。

 私がいちばん好きな彫刻。ミケランジェロの絶作。いのちつきるまで目が見えなくても創り続けていたという。

 むしょうに観たくなって夢にまで出てきた。

 あのとき、親友と訪れたミラノでのロンダニーニのピエタ。懐かしくなって旅行記をその部分だけ読んだ。ありありとあのときの感覚が蘇る。あの月、夜気、そして生の実感。

 あらためて思うのは芸術と言われるもののすばらしさは、その作品そのものではありえないということ。それを観るものがいて、そこに感応するものがいて、はじめてそれは芸術作品となるのではないか、ということ。

 私は絵画についての本も書いてきているし、いまでも好きな芸術家たちのことを書いてみたいと思っているし、じっさい、書いて出版中止になって誰の目にもふれないままになっている原稿もある。研究者じゃないから、新説がないから、一次資料にあたっていないから、などの理由で断られたこともいままに何度もある。

 でも、処女作にも書いたとおり、私はいまでも芸術作品とそれを観るものの間に存在する時代を超えたコミュニオンを愛している。

 知識に埋没すると見えなくなるものがある。いったい自分は何を知りたいのか、いったい何をもとめているのか、見えなくなるものがある。そんなひとたちを私は何人も知っている。どんなに知識があろうと、自分のまんなかにある感受性、羞恥心、を失わないでいるひとは少ない。

 先日、「アナイス・ニン 自己を語る」のDVD、中田先生のインタビューをまたまた見直していて、先生の膨大な知識にささえられた強固なたたずまい、それなのにそんなものをなんとも思っていなくて、みずみずしく、わかりやすい言葉でアナイスについて語る様子を見て、つくづく、中田耕治先生への尊敬と愛をつのらせた。

 今日はいつも以上にとりとめのない記事になってしまった。

 よのなかは桜にみちている季節。それぞれのやり方で桜を楽しんでいる。

 大好きな坂口安吾の「桜の森の満開の下」でも読み返してみようかな。あのおそろしい物語を。

 そして私は誰もいない真夜中、薄い月明かりのもと、満開で散る寸前の桜の下ではだかになりたい。

 

*ロンダニーニのピエタの記事

◆私的時間旅行 14「人生は美しい」

◆喪失はすべてを

*アナイスのDVDの記事

◆アナイスとサティとノスタルジア

◆アナイスのように

*ラスト・タンゴの記事

◆タンゴ記念日

 

-▽映画, ◆私のアナイス, ◎Tango, アルゼンチンタンゴ, ブログ「言葉美術館」, 私のタンゴライフ