■対極言葉遊び■
2016/10/21
「愛するの反対って憎しみじゃなくって無関心なんだってね」
先日知人と愛情とか情愛とか恋愛とか結婚について話しているなかで、彼女が言った言葉。
「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」
これはマザー・テレサの言葉で、わりとみんなが知っているようだ。
そうよね、愛がなければ憎しみは生まれないから、憎しみは愛の一部。
わかるけど、いやだなあ、憎しみって。
憎むって、いくら、どろどろでもオッケー、と思っていても、いやだなあ。
どうしてだろう。
憎しみってとっても悲しみと近くて、私はそれがとてもとてもこわいから、それでいやなのかな。でもそんなことを言っていたら恋愛は遠い。
いまでも私のなかのナンバーワンの映画『めぐりあう時間たち』のなかで、おそらく40代半ばくらいのゲイの男性が、教え子である若い男の子と恋愛関係になったことを旧友に話す場面があって、そのとき次のようなことを言う。
「不安なんだ、この年齢になってまたあの恋愛という激しい感情のうずのなかに巻き込まれることに耐えられるのかと、不安や悲しみや嫉妬や独占欲や欲望やそういうものに自分が耐えられるのかと……。」
彼の言うことがよくわかる年齢に自分もなっている。
よくわかるけれども、でも今だからこそなのだ、という想いもある。
あの、なんにも知らない(もちろん知らないからこその輝きはあった)若き日の恋愛には到底不可能な、何か表現しがたい芳醇な香りは、いまくらいの年齢にならないと、感じ取ることができないし、生み出すことも、たぶんできない。
いくつもの苦しみいくつもの悦びいくつもの裏切りいくつもの悲しみいくつもの恍惚を経験してきたふたりの人生が運命的に交わるなんてことがあるとすれば(ほとんど奇跡だけれど)、
そこからたちのぼる香りは、ほかのあらゆるものを放棄できると想いこめるほどに美しく抗いがたいはず。
そんなことを朝から考えている。
そして連想ゲームのように反対言葉というか、対極言葉というかそんなのが頭をまわりはじめる。ぐるぐると。
たとえば。
「欲望」の対極は「死」。
これはエリア・カザンの『欲望という名の電車 』で有名な台詞で、私も『愛は禁断を超えて』の脚本で借用したことがある。
いま私は死の近くにはいない。
ほかには。
机の周囲を見渡して目につく言葉を拾って対極言葉遊び。
剛さの対極は狡さ。優しさの対極は強要。快楽の対極は義務。情熱の対極は習慣。真実の対極は未練。魂の対極は世間体。
……国語のテスト0点だな、これじゃあ。外はマイナス六度。
写真は「欲望という名の電車」のブランチ役、ヴィヴィアン・リー。