■「鉄道運転士の花束」と私の居場所■
新宿シネマカリテ。「鉄道運転士の花束」を観てきた。
つくづく思ったのは、これは映画に限らないんだけど、本にしても音楽にしても人にしてもそうなんだけど、その「時」が重要なのだということ。
いまの私には、「ありがとう」って、この映画に関わったひとすべてに言いたいくらいの作品だった。
観終わったあと、なにがそんなによかったのだろう、と考えた。
私は、映画の冒頭部分から、涙していた。
そして、途中、なんども涙が出てきた。周囲のひとたちの様子からすると、涙場面ではないようなところでも、涙が出てきた。
終わったあと、すごくよかった、観てよかった、大好きだな、って思った。
そして、なにがそんなによかったのだろう、と考えたのだ。いまも考えている。
うーん。
ひとことで言えば、この映画には、私の居場所があった。
自分の居場所があるような映画。これはそんなに多くはない。
でも私のなかに残って消えることのない、いくつかの映画に共通するキーワードのひとつはたしかに「居場所」なのだ。
言葉が言葉として通じない、共通言語をもたないひとたちと時間をすごすとき、そこに私の居場所はない……。
また、この映画のキーワードのひとつに「ブラック・ユーモア」があって、ふとブラック・ユーモアの定義はどうなっているのだろう、って思って調べてみた。
私なりに解釈すれば、人間の不条理な存在を笑い飛ばそうとする、露悪的で風刺的でシニカルで絶望的なユーモア。古代ギリシアのアリストファネスの喜劇などから現代に至るまで、多くの作家が作品で用いている。
それはもう、感情にきっちりと栓をしないと気がふれてしまうか、死を選ぶかしかないような悲しみ苦しみのなかにあって、それでも生きるために、ある種のひとたちはブラック・ユーモアを必要とする。
でもそれは、ごまかしでも逃げでもなくて、私には、そこに真実があるような気がしてならない。
だって、人生はこんなにも、わけがわからず、不安に満ちていて、不公平で、そしてなんといっても不条理そのものなんだから。
ああ。ほんとうに、この映画の、世界観が好き。
人に対する、生に対する、死に対する、人生に対する諦めとほんのすこしの希望と優しさと、なんとかなるわ的な空気感と、人間の醜さとそんな人間に対する慈しみと……。そんなのがぜんぶ、好き。
配給はオンリー・ハーツ。
映画のパンフ、いつものように字幕がぜんぶ掲載されている。嬉しい。
そして冒頭の、映画評論家・秦早穂子による「列車は走るー生と死の間をー」。これが素晴らしい。
ラストだけ引用させていただく。
「幸福な一瞬は、大いに享受すべきと言ったのは、たしか、ゲーテだった。人生、そんな日もあっていいと、セルビアからの一作は、深い示唆に富んでいる」
あまりにも共鳴してしまって、抱きしめたくなる。
また、ワインライター水上彩さんのコラムも面白い。
「小さな薔薇」のレクイエム
というタイトル。映画のシーンのなかのセルビアのお酒についてのあれこれ。私も気になっていたワイン、赤でも白でもなく、なぜ「ロゼ」?
このあたりのことが詳細に書かれている。水上彩さんの文章は、個人がある、そこがとても好き。
映画のパンフ。
裏表紙にはひとこと。
「線路は幸せを運んでくる、ごくたまに。」
線路を人生に置き換えてみれば、私の人生観とぴったり。
そう。
人生は幸せを運んでくる。ごくたまに。
だからなんとか生き続けている。