特別な物語 私的時間旅行

4.「チャンスをつかむ準備はできているか」

2020/04/22

[死の場所ではなく、愛の場所]

息をつく暇もなく、ミラノ最終日を迎えた。

普段、貧乏だが時間だけはゆっくり送る私たちにとって、「アクティブ修平さん」の組んでくれたスケジュールは超ハードであった。睡眠時間も恐らく半分くらい。なのに、化粧のノリは大変よい。不思議だ。身体はハードでも、精神的に充実しているということか。30歳の「お肌」は身体ではなく精神を反映するのだろうか。

ああ、そんなことはどうでもいい。
今日も刺激てんこもりの一日になりそうだ。

修平さんの車で私たちはまず「記念墓地」へと向った。

私はその日、初日に「踊り子」した時の青いセーターを着ていて、修平さんはそれを見るなり、「それ、こちらで買ったんでしょう?」と自信たっぷりの口調で言った。
「え、わかります?」と驚くと、「色がイタリアの色ですから」。

佐和子がしみじみと私のセーターを眺め、「そういえば、そうだね。それはいい青だよ」と頷いている。

朝から私はご機嫌なのだった。

やはり、嬉しいものだ。自分の着ている服に目を留めてもらえると、ただただ嬉しい。それが褒められているのでなくても、注目されていることに私は快感なのだ。それだけでその日一日が明るくなる。実に単純なのである。

記念墓地はポルタ・ガリバルディ駅近くにある、墓地というより、野外美術館といった雰囲気の場所だった。

朝の空気の中、私たち三人は、人気のない墓地を歩いた。ざっざ、という自分たちの足音が耳に心地いい。

そこは、すばらしい空間だった。
それぞれの墓にはみごとな彫刻作品があり、それらは下で眠る人たちの人生を物語っているかのように表情があり、雄弁だった。
佐和子が言った。

「死の場所というより、愛の場所ですねえ」

修平さんがにっこりと頷いた。
「いいでしょ? ここはどんなに時間がなくてもお連れしたかったんです」
「お天気がよかったら、一日中ぼんやりしたいようなところですね」と私は言った。

残念だった。あまりゆっくりはできなかったのだ。この後、予定が入っていた。

 

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<記念墓地(Cimitero Monumentale)。
イタリア現代美術の革新者フォンターナはじめ、
有名な人々の個性ある彫刻作品が本当に素晴らしい>

私たちは、まだいたい、という想いを抑えて修平さんの車に乗り込んだ。
車はブレラ絵画館方面へ向けて走り出した。
佐和子がほうっと息をついて言った。

「大切なひとを失った哀しみとそのひとへの想いが、いっぱいあふれてた」

そして窓の外に顔を向けた。
私はうん、と頷きながら、このひとはなんというか、本当に柔らかで優しくて、この感受性というのはすごいぞ、と改めて思っていた。
私はそこまで感じ入っていなかった。
佐和子の言葉で、もう一度墓地へ戻りたくなった。私も、そう感じることができるかどうか、確かめたくなった。

佐和子が妬ましかった。
自分が欲しいと思っていて、でもそれは願えば獲得できるという種類のものではなく、そして、佐和子はそれを持っている。
ひどくうらやましい、と思った。

 

[油断のならない笑顔]

車はブレラ絵画館前に止められた。
「時間があまりないですけど、さあ、降りて降りて、ちょっと寄りたいところがあるんです!」
「アクティブ修平さん」がのんびりしている私たちを促した。

駆け足で修平さんの背中を追って行く。彼はあるバールの扉を開けて中に入った。 扉を抑えながら私たちを手招きし、

「ここにはね、近くの画学生たちの絵が展示されているんですよ。さあ!中に入って、写真を撮って!」

と私に“取材”をすすめるのであった。

中に入ると、煙草の煙と喧騒渦巻く空間に小さな作品が展示されている。

「こうして、みんな若きアーティストを応援しているんです。日本にももっともっと増えて欲しいですよね」

と背後から修平さん。
ふりむくと、にこにこと微笑んでいる。

この笑顔に接すると、アートに悩める私でも、「ああ、頑張らないといけないのかな」という気になってしまう。油断のならない笑顔である。

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<ブレラ絵画間近くのバール。アートが日常の中にある。
こういう土壌があるからこそ、 アーティストが育ち、
そしてアーティストを目指す人々が集まる>

 

[消えたギャラリーカフェ]

そういえば、と思い出したことがある。
少し前のことだけれど、私はギャラリーカフェを持とうとしていたことがあったのだ。
場所は東京駅のガード下。
ラーメン屋なんかが入っている、雑多な雰囲気のところだったが、煉瓦造りというレトロなところが気に入った。
ある企業が所有していたのだが、デッドスペースになっていて、ひょんなところから「ギャラリーをやりませんか」とお声がかかったのだ。
「お金はいりません。企業のメセナ活動として、山口さんに使っていただけたら」という、嘘のようなおいしい話だった。

がぜん乗り気になった。
場所柄、単なるギャラリーでは人が集まらないと思ったので、カフェと組み合わせることにした。
美味しいコーヒーを出し、絵を飾る。

その絵は「これからの画家」の作品にして、一般の人たちが気軽に買えるような金額に設定する。そして定期的にそこでサロンを開く。女主人はもちろん、私。パリ、モンパルナスのカフェ文化のイメージで。
なんて、夢はむくむくとふくらみ、数ヶ月はその準備に没頭した。

ところが。
先方が心変わりした。家賃が欲しい、と言い出した。私たちの事業計画書を見て、もうかる、とでも思ったのだろうか。先方の提示した金額はかなりのもので、運営は無理、と判断せざるをえなかった。

かなりがっかりしたが、そこはいつもの調子で「今やるのはよくないってことでしょう。全てのものには時がある、ってね」と、次なる機会を待つことにしたのだ。

私がつくりたかった空間はまさに修平さんが望むそれであり、けれど、今はどうしてもあの時のような情熱が沸いてこない。
だから、修平さんに「私もいつか、つくりますね!」と言うことはできなかった。

さて、コーヒーも飲まずにバールを出た私たちは再び車に乗り込んだ。
「なんて忙しいんだ!」「ひええ」
修平さんに聞こえないようにふたりで囁き合いながら。
でも仕方ない。
大木泉さんというアーティストとの約束の時間がせまっていた。

 

[オリジナルな言葉の持つ説得力]

それは、古い館の地下にあった。

中庭に面して地下への階段があり、そのひとつがアトリエに続いている。

そこで、ガラス立体造形家の大木泉さんが待っていた。
会った瞬間、私は(おそらく佐和子も)彼女の持つ強力なオーラに圧倒された。
「芸術家」「アーティスト」という響きを厚く身にまとっていて、またその瞳がすごい。ミステリアスな瞳って、まさにこれだわ!といった感じ。

第一印象は、とにかく強烈であった。そして、ちょっとコワかったのも事実である。
いいかげんなことを言うと軽蔑されそうだ、と私は脅えた。なにせ、今の私はアートに対してぶらぶら宙ぶらりんなのだから。

ところが、実際話してみると、とても可愛らしいひとで、そのミスマッチな雰囲気がまた魅力的だった。
少しはにかみながら、言葉をひとつひとつ選ぶようにゆっくりと話す。

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<大木泉さん。
ぴしっと決めた時の表情は少し近寄りがたいけれど、
笑うと途端に、すりよって行きたくなる。魅力的な女性>

時々「えー、日本語では何ていうんだったっけ」と指を額にあてながら考え、ミラノに来るまでの経緯や外国生活の面白く興味深いエピソードを語ってくれた。
中でも忘れがたいものがある。

「チャンスというのは頭の上をびゅんびゅん飛んでいるわけで、それをいかにつかむか、が問題なのよね。つかむことができる、というのは自分にそれだけ用意ができているという状態でしょう? 年齢を重ねる毎にチャンスの数は減ってゆくけれど、準備は整ってくるから、つかまえられる可能性は大きいのよ」

私は「消えたギャラリーカフェ」のことを思った。

今度はつかむことができるだろうか。準備は整いつつあるのだろうか、と。

それにしても、この話はおそらく大木泉さんが今までの人生の中で「実感」してきたことなのだろう。
話している時の目やしぐさで私にもわかる。

それが他人の言葉を暗唱しているだけなのか、オリジナルな言葉なのか。

大木さんのは絶対的に後者であった。

その言葉と言葉の間に、いくつもの挫折や絶望、喜び、充実感などが見え隠れしていた。だからこそ、説得力があった。

そして、アトリエはまさに大木泉の小宇宙であった。

ガラスの、宇宙。個展会場のようにいくつもの作品が展示されていて、それらが照明に反射して薄緑を微妙に揺らしている。
私と佐和子はその空間で陶然とし、作品に囲まれてポーズをとったりしたのであった。

 

[重要なのは、日本人特有の精神]

 

最後に、「なぜ作品を創り、それを発表するのか」と彼女に尋ねた。
彼女は言った。

「アーティストとしての私の社会的立場は、創った作品を通して社会とコミュニケーションしていくことだと思うの。
といってもよく分からない? えーと、ね。
例えば日本は、国際社会の中でも経済でしか認識されていないところがあるでしょう?
国際的文化として知られているのは歌舞伎やお能。
もちろん、そういった古いものも大切なんだけれど、もっと重要なのは、その中に流れる日本人特有の精神だと思うの。
それを表現からどう伝えてゆくのか、国際的な理解のためにどのように役立て、社会をよりよくしていくのか。
それが海外にいる日本人アーティストの、社会に対する役割でしょう。
あのね、私思うの。これからは文化を通してコミュニケーションを持つ時代なんだ、って」

帰り際、“取材”に来ている私たちのために、作品を撮ったスライドを何枚か貸してくれた。透明なスライドケースにそれらを入れてくれたのだが、そのケースは随分大きく、今後の旅行を考えると、もっと小さなのがあればいいな、と思った。でも、そんなことは悪くて言えない、と思っていたところに、
「これちょっと大きすぎるかあ。もっと小さいのがいいよね。探してきましょうか」
と大木さんが言った。
「いえ、そんな。これでいいです」
「でも、小さい方が便利でしょう?」
「え、まあ、それはそうですけど」
「だったら、そう言わないと」
「はい・・・・・・」
「イタリアでは、とにかく自分の要求は伝える。それに対して判断するのは相手なんだから。言わないと伝わらないでしょう? ノーと言われても、気持ちよく認めるという姿勢が前提だけど」
「そうですね」と答えながら、私は思った。

私もイタリアのそういったスタイルが好きだし、実践したい。けれど、日本でそれをやるのは、相当近しい間柄は別として、恐らく難しいだろう。

私が要望を言う。相手はそれを断ったらいけないと思い無理をする。そして無理をしたことから、私のことを図々しい女、と思い、その雰囲気を察した私は次からそれをやらなくなる。
イタリア式の方がよっぽど合理的で、親密な人間関係も築けると思うのだが。

大木さんに別れを告げ、私と佐和子はブレラ絵画館周辺をぶらぶらと歩いた。

修平さんは仕事で先に帰っていたので、この後はフリーなのであった。

「とても、インパクトのあるひとだ」
と大木泉の余韻に包まれたまま私は言った。

「そうねえ。オリエンタルを体現していて、すごい」と佐和子もぼーっとしたまま言った。目が遠くを見ているからわかる。

「伊藤福紫さんと、とても近いことを言ってたよね。作品を発表する意味、について」と私。

佐和子は遠い目をしたまま、「うん。彼女たちは自分の使命をきちんととらえているのだね。うらやましい限り」と、ここでふう、と息をつき、視線を私に戻して続けた。

「私、大木泉さんにとても共感したなあ。日本史科を卒業していたり、それになんといっても、水がテーマだったり」

「水?」私はすっとんきょうな声をあげた。

「そう。水を感じたの。彼女の作品に」

「それで、どうして水で共感なの?」

尋ねた私に、ふふふ、と「ふ」の音をきちんと発音しながら佐和子は楽しそうに笑い、「それは長くなるからまたの機会に話すことにしよう」と言った。
また面白い話が聞けそうなのであった。

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<「水」のなかで陶然とポーズをとる佐和子。
寝不足だけど「お肌」の状態はいいみたい>

 

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