特別な物語 軽井沢時間

◆―◆―◆―1.私の軽井沢、「春」―◆―◆―◆

2020/04/22

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 軽井沢の春はたいへん遅く、あまりにも遅いので、もしかしたら軽井沢には春という季節は無いのかもしれない、と疑いたくなるのが、三月ならびに四月です。

  ながい氷の季節が、三歩進んでは二歩下がる、といった調子ではあるものの確実に移り変わっていることは、植物に目をやれば容易に確認できるというのに、どうも私にはいつまでたっても寒い。じっさい、四月中旬を過ぎても床暖房のスイッチは入れたままで、夜にはストーブを焚くことだって少なくありません。

 軽井沢に移り住んで四年。遠い記憶となりつつある東京ライフに照らし合わせてみれば、これはどう考えても「冬」モード。そして、月に数回の割合で東京に出る私にとって、軽井沢と東京のギャップをもっとも感じるのが、東京では「春」と呼ばれるこの季節なのです。

 三月も終わりに近づいたある日のことです。軽井沢に雪が降りました。積雪は10センチ弱ほどでしたが、私はその日、東京に出かける用事がありました。都会はそろそろ桜の季節ですから、私はブーツではなく、軽やかなパンプスで出かけたかった。なので、新幹線通勤をしている夫を七時十分発に間に合うように駅まで送った後、玄関から車に乗るまでの道を念入りに除雪しました。

 しぶとく雪が舞い続ける「冬」空のもと、勇気をふりしぼってスプリングコートをはおり、パンプスが汚れないようにつま先だって歩いて車に乗り、軽井沢駅へ。改札前の電光気温表示に「1℃」なんてあるのを恨めしく眺めつつ改札を抜けます。薄着ゆえ寒くてたまりません。軽井沢駅に「クローク・サービスを!」の嘆願書を書こうかと思うのはこんなときです。

 平均十度の温度差がある、軽井沢と東京。けれど、ひところ「東京都軽井沢区」と呼ばれたほどに両者は仲良しであるはずで、その証拠のひとつとして、「FM軽井沢」の天気予報では毎日軽井沢と東京、両方の天気が報道されているのです。ですから、新幹線に乗る前に、「おねがいね」とコートを預けられるサービスがあってもおかしくないのでは、と思うわけです。

 さて、東京で刺激をめいっぱい受けて、心地よい疲労とともに、一時間新幹線に揺られて軽井沢駅に降り立ちました。まずすることは、深呼吸。身体じゅうに冷気がしみわたります。つい先ほどまでいた東京と同じ日本なのかと疑いたくなるほどに冷たい。冷たいのですけれど、東京で一日を過ごした後の、軽井沢の空気は格別です。これは、おそらく軽井沢に住んでいる者でないとわからない恍惚、と言っても過言ではありません。

 十時半。すでに真夜中と化している軽井沢の町を、車を走らせて家に向かいます。ふと、メイ・サートンの言葉が頭に浮かびました。

 自分の内部を見つめるべく、ニューイングランドという片田舎に移り住んだ詩人が『独り居の日記』のなかで書いている、「私には考える時間がある。それこそ大きな、いや最大のぜいたくというものだ」に、突如として一方的に、しかし激しく共感しました。

 刺激に満ちた都会のなかでは確保することがなかなか難しい「考える時間」に満ちた軽井沢。そこが、自分が帰る場所であることの幸福を感じられる、このような瞬間を、春が無いとぼやきつつも、私は、こよなく愛しているようです。

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