MODEな軽井沢 特別な物語

◆山本耀司、一着の服◆2009.5.4

2020/04/22

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 若いときっていうのは、大人の着ているものを「崩す」「バランスを変える」「わざとだらしなくする」ことから、服を着はじめます。学生時代まではそういうふうに反抗していて、そして就職となると常識のなかに入る……。
 でも、そうでしょうか。
 一着の服を選ぶってことは生活を選ぶことだから、実はたいへんなことなのに、学生時代は、あれは遊びだったんですか、みたいなクエスチョン・マークがどうしてもつくんです。そうなると、子供の遊びのために一生懸命作ってられないよという心境になることもある。
 一着の服装をするということは、社会に対する自分の意識を表現することですから、これくらいに髪切って、分けて、こういうシャツ着て、ネクタイつけて、スーツを着てってなれば、あの時代のあの選択をやめたんだな、残念ですね、と言うしかない。
 社会にそういう考え方があるということと、そういう考え方のなかにずっといるという、この事実が、闘う相手としてはあまりにもリアルすぎて、あるいは大きすぎて、まいったなあ、というかんじです。
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以上、長い引用になりましたが、日本が世界に自慢できるデザイナーの一人、山本耀司の言葉です。

鷲田清一氏の『ちぐはぐな身体』は、哲学的にファッションを見つめる、とても面白い本です。
そのなかで、鷲田氏が山本耀司に会ったときの言葉を書いてくれていて、それが上記引用部分です。
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単行本が出版されたのはおよそ十五年前ですから、そして、モードはうつろうものですから、十五年前と今とでは、ようすもだいぶかわっていますが、芸術家というものは、根っこの部分、変わらないことが多いので、(まどろっこしい言い方になっていますが)、ようするに、山本耀司の言葉の根っこにある部分は、今もきっと変わっていないと思うのです。

私が共鳴した部分、太字にしてあります。
そして繰り返しますが、山本耀司の言うように、服は「生活を選ぶこと」であり、「社会に対する自分の意識を表現すること」なのです。


(↑「YOHJI YAMAMOTO―M´EMOIRE DE LA MODE」 )

私としては、服は「私をこういうふうに見てね」という周囲への強烈なアピールだと思います。
だからピンヒールに露出度の高いワンピースを着て、思いきり女として見られた時、「いやらしいわっ」と言うのはいけないと思うし、スニーカーにタートルネックのセーターを着て、ぜんぜん女として意識されなかった時、「ひどいわっ」と言ってはいけないと思っています。

山本耀司、最新のニュースはこちらでどうぞ。
フェラガモとのコラボレーションが話題のようです。

オフィシャルサイトはこちらです。

「都市とモードのビデオノート」、こちらもおすすめです。ヴィム・ヴェンダース監督と山本耀司の出会いによって生まれたドキュメンタリーです。

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