■嫌いな言葉とタンゴとクリスマスと
嫌いな言葉なのに、つい口にしてしまうものがいくつかある。
最近、自分で言った音を自分で聞いて、あーあ、って落胆したものを思い出してみる。
「とりあえず」
「めんどくさい」
「びみょう」
「まあ、いいんじゃない」
「せっかく」
……うーん。こうして書いてみるとほんとうに嫌だ。なんだろう、思考に見放されているようなかんじがするからだろうか。
クリスマスムードが終わってほっとしている27日月曜日。
クリスマスシーズンはほんとうにつらい。「もう、いいかげん受け入れなさいよ、いいのよ、それで世の中がお祭りムードになって、経済効果もあるなら、世の中に流されなさいよ」という声も自分の老化部門から聞こえてくる。
でもどうしても嫌だ。
「なぜ、それをするのか」ってことを考えないことが嫌。
だから忘れないために、この記事のリンクをここに。
いまパソコンに向かったのは、今年のタンゴシーン、私のなかの最高の時のことを書きたかったのだった。
その日は帰宅して実感したのをよく覚えている。
ーーーエロティックな刺激と甘やかな幸せと忘我の恍惚のなかで私は燃えつきた。
これがある限りはだいじょうぶ、ってなにがだいじょうぶなんだか、すごく強く思った。
タンゴに限らず、これに似た感覚は、人生のプレゼントみたいなかたちで、ほんとうに、ごく稀に訪れる。そして、そのときのことをあれこれと考えてみれば、もちろん、環境というものもあるのだけれど、つきつめてゆけば、結局のところ自分自身の気分が鍵となるということに気づいた。
私はその日、ものすごく集中して1日を過ごしたのだった。その数時間のために集中して。
『大人の美学』に書いたような出合いだったのに、いつしかこんなに重要な存在となってしまったアルゼンチンタンゴについて、すごく集中して、私とタンゴの関係を見つめたのだ。その結果、いまのすべてを出せた、と思えたから、燃えつきた、って思ったのだろう。
言うまでもなく、踊ってくれた人たちが感応してくれなければ無理な話。
今年の後半はさまざまなところでミロンガ(タンゴのダンスパーティみたいなもの)が開催された。
コロナ禍の制約から一気にはじけたようなかんじだった。そして私も、いくつかのところに出かけた。
結果、そこで目にしたもの感じたものによって、私は何が嫌いで何が好きなのかをあらためて認識することになった。
タンゴに限らず、必要摩擦というものがあって、それによって自分が何が嫌いなのか何が好きなのか、はっきりすることがある。
……なんだかとりとめなくなってきたな。
仕事にしてもタンゴにしても今年、いちばん注意していたことは「なぜ、それをするのか」から離れないでいることだったと思う。とくに仕事かな。サガンに影響されていることではあるけれど、「なぜ、それをするのか」から離れて「どのようにして、それをするか」に支配されてしまって、もはや「なぜ」を忘れてしまうことが私は怖い。
写真は家族で集まって食事をした夜のもの。私が「クリスマスってさ、そもそも…」とうるさく言うものだから、けれど「クリスマスはしたいよう」という1名、「どっちでもいいよ」という1名。結果、世間は「メリー・クリスマス」な日、私たちドリームチームは「メリー・パラダイス」にしようということになっている。なぜ、パラダイスなのかはロングストーリー。