アルゼンチンタンゴ ブログ「言葉美術館」

■作家の業と絶望と諦めとタンゴと

 

 新しい年が始まるとダウンするのは毎年のこと。これ、「終わり」に昂まり「始まり」に萎える気質ということなのだろうか。四月が苦手なのと似ていて。

 今年の場合はいくつかの原因めいたものがわかる。昨年の終わりは新刊の最終作業に終われ、12月16日に発売、そのあとはタンゴを踊りまくっていた。

 二年越しの作品をようやく仕上げたからか、テンションが異様に高く、いま思えばうっとうしくけたたましくもあり、躁状態だったんだなあ、ということがわかるけど、そのときはそれをどうすることもできない。

 とにかくしゃべりすぎた。

 身近な人、会ったばかりの人、誰彼構わず、おくゆかしさゼロで交流した。うっとうしかったに違いない。ご迷惑をおかけしました。ごめんなさい。

 でもとても「元気」だった。

 大晦日、家族3人で過ごしていたとき、今年を漢字一文字であらわすと何? という話になった。いつもは「私はそういう感覚ないのでパス」なのだが、躁な私は即答していた「元気の元!」。

 おお、とふたりから歓声があがる。すごいじゃん。そんな年ってあった? 元気なんて言葉が出てくるなんて……。

 ふたりからの感想にはからかいではなく「安堵」がたっぷり含まれていた。元気という言葉とは無縁、が基本スタイルだから、まあ、そうでしょう。

 私は言った。こんなに「元気」だった年は、すくなくともここ10年ではなかったような気がする。

 じゃあ、来年はどんな年にしたい、って漢字一文字であらわすと何?

 これまたいつもスルーするのに、そのときはまたしても即答していた。

「変化の変!」

 へえ、何を変えたいの? 

 わからない、でも、なんかいまそう思ったの。変えたいよ、飽きるのがいやで、なんかそんな予感がするから。

 そう私は答えた。

 いま考えても何をどう変えたいのかよくわからない。

 そして年始の、こんどは3人家族ではなく、両親、妹家族との小旅行があった。それが終わってすぐに次の本の仕事を始めた。

 あれ、今年ったらいいかんじじゃない? 私ったら。ふふふ。

 と喜んだのだが、そんなわけはやはりなかった。

 二日経って、ぷち、と音がするように何かが切れた。そして廃人のようになり、いまに至る。

 体調が悪いわけではない。精神のよりどころを見失ってしまった状態。

 そんななか、おとといくらいかな、ずっと読まないままだった『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』を一気に読んだ。九十八歳、佐藤愛子の「最後のエッセイ集」。

 昨年の秋に、病で元気のなかった母に贈ったものだ。私は未読だった。母が言った。おもしろかった、元気が出たよ、読んでみて。そうして私の手元に戻ってきていた本だった。

 かろやかに、それこそ気負いゼロで綴られた作家のエッセイ集。

 「へとへと」が基本。何にもやる気にならず、ぼんやり庭を眺めて1日を過ごすことが多い、と言う。

 私は彼女より四十も年下なのに、こんなに「わかるわかる」って思ってしまう、それってどうなのよ。

 けれど、そんな日々のなかでも、佐藤愛子の「ひっかかり」が随所に見られる。

 病院でされた対応への怒りや、親切をおしつけてくる知人への怒り。これはすごい「怒り」というよりも「ひっかかり」。

 私はどんなに歳を重ねても、この作家のように、自分が接したあらゆることに対する「ひっかかり」をたいせつにしたいんだなあ、って思って、弱っているときに読んだからか、沁みた。

 泳ぎ続けなければ死んでしまうマグロのように書き続けている、というくだりには、自らを省みて、疑問に思った。私はほんとうに書き続けなければ死んでしまうのだろうか、と。

 原稿用紙に向かって書いては破り、書いては破り、を繰り返す毎日、なのだと言う。

 そんなふうな書き方はされていないけど、苦しいだろうなあ、と思う。もう作家の業としかいえない。

 それも私にはないように思った。このブログだって「路子倶楽部」やめたとたん、更新頻度が極端に少なくなっているしね。

 読み終えて、かなしくなってしまった。そして、この感覚って自分に対する絶望なのだろうか、と考えた。いや、見切り? 諦め?

 そんなことを考えていたら、辻邦生の小説のなかにそんなのがあったな、と自分のブログを検索。

***

「絶望と諦めはそんなに違うかな?」

「違うわ。それは心の方向(むき)がまったく違うのよ。絶望は、希望から見放され、見棄てられた状態なのよ。それはこの世から追い出されたようなものよ。地面が捲きとられて、真っ黒な虚空に立つのに似ているわ。泣いて泣いて涙が枯れたときに残る痛みのようなものだわ」

「たしかに絶望は、落下してゆく檻のようなところがあるね。それに較べたら、諦めは静止している檻なのかもしれないね」

***

 2013年の記事のなかにあった。

 あーあ、と思った。9年前と何も変わっていないじゃないのよ。

 ■絶望と諦めについて考える土曜日■

 

 そんななか、昨夜はタンゴを踊った。

 そのミロンガでなければ、きっと出かけなかったであろう精神状態で、踊りたい、という気持ちももたずに。彼らに会えるだけでいい、って、そんなかんじで。

 ヘアメイクも半端、ドレス選びも半端、ふらふらと街を歩く。

 やはりそんな状態だから、踊るよりも、ぼんやりとみんなの踊りを見ていたかった。

 でも好きな人たちに誘われれば踊る。

 うまく踊れない。

 自分のヒールで自分の足を傷つけた。席に戻って、血が滲んでいる足の指をティッシュでおさえながら、泣きそうになってしまった。

 そのときは集中しているつもりなのにね。心と体はこんなにつながっている。

 不調だわ、ごめんね、と踊ってくれたお友だちに言う。

 そんなタンゴもいいよね、とお友だちは言う。とてもよかったよ、と。

 そして私はいま、今年はじめてのブログ記事を書いている。すくわれたんだ、ってほんとにいまこの瞬間、気づいた。

 

 

*写真は「大人の美学」、とくに好きなイラスト。

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