アナイス・ニンという生き方 ブログ「言葉美術館」

◾️さようなら杉崎和子先生

2024/02/20

 一通のメールが届いた。

 杉崎和子先生が、2月5日、亡くなられたというおしらせだった。

 娘とふたりの夕食後、食べすぎちゃった、とソファにもたれていたときにメールを受信した。そのまましばらくソファにうもれるようにして動けなかった。

 先生とも、もう会えない。あのやわらかな笑顔、刺激的なお話、やさしい声をもう聞けない。

 一時期、それもかなり長い時期、いや、いまもずっと続いている、私のアナイス・ニンへの想い。アナイスを私に届けてくれたのは杉崎和子先生の翻訳だった。

 その杉崎先生が「翻訳の方の親方」と呼ぶ中田耕治先生も、もうこの世にいない。喪失はずっと続いている。中田耕治先生に連れられてアナイス・ニン研究会を訪れ、はじめて杉崎和子先生にお会いしたのは、2013年12月8日のことだった。その日のことをブログに書いている。

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翻訳者であり、アナイスの作品を日本に紹介することに尽力されていて、アナイスとも親しくなさっていらした杉崎和子先生にお会いできたことも、大きな喜びでした。貴重な一日でした。あの日あのとき、中田耕治先生と杉崎和子先生、おふたりがいらして、そこに私がいられたことは、もう気が遠くなるくらいに奇跡的な出来事でした。人生の記念日です。

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 このとき、私の宝物本のひとつアナイスの日記「インセスト」にサインをいただいた。

 それから年に一度のアナイス・ニン研究会に参加するようになった。研究会以外でもときおり、先生は食事やオペラの会に誘ってくださった。先生と過ごす時間はあっという間で、先生がアメリカにいたときの話、アナイスとの交流の話、これから書きたい本の話などを私は夢中になって聞いた。

 2016年の夏には、アナイスのドキュメンタリーDVDのために、先生へのインタビューをさせていただいた。http://michikosalon.com/blog/4062

 2018年6月には「作家ガイド アナイス・ニン」の刊行を記念してのトークイベントでご一緒させていただいた。

 私のブログ、「杉崎和子」で検索すると23件も出てくる、どれだけ好きだったんだろう。

 さいごにお会いしたのは、2018年10月19日だっただろうか。四ツ谷の、先生の行きつけのフランス料理のレストランでランチをごちそうになった。そのとき先生は自伝をお書きになっていて、半分くらいはできているとおっしゃった。私はほんとうに読みたくて、なんでもお手伝いするから、パソコン入力くらいならできるから、なんとかして書き上げてほしい、と言った。

 なかなかひとりだと進まないよの、直してばかりで…と先生はおっしゃった。直していたらきりがないので、とにかくどんどん進めることです! と私はいつも編集者さんに言われていることを先生に言ったりした。路子さんが近くにいてくれたら、すぐに書けそうなのに、と先生はおっしゃって、それから、まだ途中で、まとまってもいないのだけれど、読んでいただいて感想をくださる? と。

 しばらくして原稿のデータが郵送で届いた。私はむさぼるようにして読んだ。アナイスが亡くなったあたり、先生が40代半ばまでの、人生がそこにあった。

 そのすばらしさに圧倒されて、私は先生に感想を書き綴った手紙を送った。自伝の出版を心待ちにしています、と。

 アナイスの死の章は、私の興味もあるのだろうけれど、圧巻だった。書き写して保存しておいた。

 先生はだんだん弱っているように見えて、もしかしたら、自伝の完成はないかもしれない、とそのときに思っていたのだろうか。ほんのすこしはあったかもしれない、認めたくなかったけれど。

 それから、手紙や私の本を送ってもお返事がないままになった。電話をしてもつながらない。アナイス・ニン研究会の方に尋ねると、詳細はわからないけれど施設に入られて、体はお元気だけれど、手紙を書いたり、そういうことは難しいようだということだった。

 だから、覚悟していなかったわけではない。けれど、やはりこんなにさびしい。杉崎和子先生、会いたいです。

 先生の自伝のアナイスの死の章、いま一度読み直して、杉崎和子というひとの感性、表現力が私は、ほんとうに、ほんとうに好きだったんだな、と思っています。大好きです。もっともっとおしゃべりしたり一緒に本を作ったりしたかったけれど、それでも先生の人生の最終章で、出会えたことに感謝します。ありがとうございます。

 あちらがわの世界で、アナイス、中田耕治先生、杉崎和子先生が、たのしそうにおしゃべりしている夢を見ました。

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