◆私のアナイス ●もっと知りたいアナイス アナイス・ニンという生き方 ブログ「言葉美術館」

◆アナイスは凄い、アナイスは凄い(杉崎和子先生への手紙 2016年7月11日)

2017/02/21

中田耕治先生に続いて杉崎和子先生へインタビューをお願いした。同じように、そのための手紙から。

※写真は私の仕事場でのインタビュー終了時に。先生の紫色のマントはアナイスからの贈り物。私は色だけ合わせました。

◆杉崎和子先生へお聞きしたいこと 

(1)杉崎和子先生にとってのアナイス・ニンというひと

『ヘンリー&ジューン 私が愛した男と女』の「訳者解説」で、杉崎先生は、アナイスとの出逢いについてお書きになっています。

***

会ったとき、のっけから、私はその美しさに圧倒された。一九六六年の初夏だった。すでの六十歳を越えていたはずだが、濃いローズ色のドレス、赤みがかったブロンドの髪に、同じ色の大きなリボンを結んだ、その女性には、そんな装いが、とてもよく似合っていた。大きな瞳が、光線のぐあいで、グレイ、紫、翠に、色を変える。隣に座った、彼女の息子といっていいような年齢の若者に、肩を抱かれて、しっぽりと、その場におさまっていられるような、不思議な、なまめかしさを漂わせている。言葉にはフランス風のアクセントがあった。

 「日本に翻訳していただけるのなら、是非、この方に会うように」と『愛の家のスパイ』の訳者、中田耕治先生を紹介してくださった。それからの私は、しばらく馬鹿の一つ覚えみたいに、先生とお目に掛かったときは、もちろんのこと、友人、知人をつかまえては、アナイスは凄い、アナイスは凄いと、繰り返していた。

 美しいひとだった。その美しさを、ご自分でも、よく知っているようなのだが、嫌みなところがない。世代が違う我々にも、優しくて、親切で、上から物を言うような態度は、決してみせなかった。何とも不思議な魅力のある女性であった。のちに、彼女の著作の全容を知って、少なくとも、その魅力の一部がどこから来るのか、おぼろげながら、分かるような気がした。もちろん、美しく生まれついたということもある。が、内面の、きりのない深さ、複雑さが、その顔に見えているのだ。おやみない、自己探求、自己開発の努力を、生涯続けてきた女性。孤立した自己ではなく、つねに他者との関係において、流動的に変化しつつ、成長し続けた自己である。しかも、その自己探求の足跡を、六十余年にわたって、綿々と『日記』に記録し続けたのだ。並みたいていの人間ではない。

***

■杉崎先生が、アナイス・ニンの作品を翻訳したい、と思ったのは、アナイスの作品のなかにある、特に、何に魅せられたからでしょうか?

■また、アナイスとの出逢いについて、あらためてお話しください。

■その後、アナイスと10年ほど交流がおありだったと思います。その10年の間で、アナイスに対する印象で変わったことはありますか。

(2)アナイスを愛した男たちについての印象

『インセスト』の訳者解説で先生はお書きになっています。

***

一九四〇年、ニューヨークに落ち着いたアナイス・ニンの周りをヒューゴー、ヘンリー・ミラー、オットー・ランク、ゴンザロ・モレなど、彼女が愛した男たちが取り巻いていた。しかし、アナイス・ニンが探し始めた新たな男性像はその中にはいないようであった。幼い自分を捨てた父への限りない憧憬をフランスでの激しい対立で燃焼し尽したのか、アナイスは父性的男性像への憧れや興味を失くしていったらしい。そして、まるで生まれなかった子供を追い求めるように、若く美しく純粋でロマンティックな青年たちに彼女の愛の対象は絞られていった。

一九四七年、ニンはその後の彼女の生涯を大きく変えることになるひとりの青年に出会った。ハーヴァード大学で、音楽と文学を専攻した十六歳年下のルーパート・ポールである。…略…

カリフォルニアの山の宿舎と夫との優雅な生活が続くニューヨークの高級アパートとの間を二、三か月ごとに往復する生活がアナイスに始まった。ニューヨークから、アナイスは毎日必ず午後四時にルーパートに電話を入れる。携帯も、留守電もない時代である。彼は、必ず家にいて、その電話をとった。…略…

アナイスの死後、ヒューゴーとルーパートは電話で連絡を取り合うようになった。ルーパートが印税の分配、送金を受け持っていたからである。妻に先立たれ、子のないヒューゴーはルーパートを息子のようにも頼りにしていたのだろうか。一九八〇年に初めて二人の男が顔を合わせたときは、どちらも淡々としたものであった。その頃のヒューゴーは、アナイスが彼に隠しおおせたと思っていたらしいもろもろの愛の遍歴について、「いや、もちろん、僕は、みんな知ってはいた。だか、知らないふりをしなければならなかった。アナイスのゲームだからね、そのルールを守ってプレイするより仕方がなかったのさ。そうしなければ、僕は彼女を失うことになっただろうからね」と言っていた。

ヒューゴーは一九八五年一月七日ニューヨークで死んだ。八十六歳だった。一九一九年生まれのルーパート・ポールも、二〇〇六年七月、八十七歳で亡くなった。(二〇〇八年。『インセスト』訳者解説 アナイス・ニンについて)

■杉崎先生がお会いになったヒューゴーとルーパート・ポールの印象について。

■また、先生がご覧になって、「ヒューゴーが愛したアナイス」と「ルーパートが愛したアナイス」は似ていたと思われますか?

というのは、アナイスは極めて多面性のある女性だと思うので、ヒューゴーに見せていた面とルーパートに見せていた面が、もしかしたらかなり違っていたのかもしれない、とそんなふうにも思うものですから。いかがでしょうか。

(3)アナイスの作品を後世に伝える仕事をしていた、また、現在している人たちについてお話しください。

『インセスト』訳者解説にはガンサーについてお書きになっています。

***

ガンサー・シュツルマン(一九二七~二〇〇二)について少し触れておく。…略…

このドイツ生まれの青年ガンサーは、アナイス・ニンの作品に写実主義のアメリカ男性作家のものとはまったく違う何かを見た。ひたすら女性の真理を探索、追及しようという彼女の日記や、その日記を素材に作品化される象徴的なフィクションの芸術性に、また、英語を母国語としないこの女性が使う英語表現の不思議な豊かさにも、ガンサーは惹きつけられた。アナイスが彼と同じヨーロッパのルーツを引きずっている人間であったことも、個性的な美しさを湛えた女性であったことも、もちろん理由のひとつではあったろうが、とにかく、彼はアナイス・ニンに心酔し、二〇〇二年の彼の死までの五十年間、もっとも献身的なアナイス・ニンのファンであり、強力な支持者であり続けた。ニン作品の出版に対する彼の怯みのない、執念さえ感じさせる努力と、エージェントとしての鋭いビジネスセンスがなければ、アナイス・ニンは今日ほど、世に知られることがなかったかもしれない。ガンサーの死後は夫人がエージェントを引き継いでいる。

***

■ガンサーという出版人のことを、お話しください。

■アナイスの死後、遺言でルーパートに無削除版の日記の出版を託していたという話。

ルーパートがアナイスの文学作品を後世に伝えるために、したことについてなど、お話ください。また、ヒューゴーは?

■現在の、アナイス・ニン財団のことについて、お話しください。

(4)杉崎和子先生が三十四歳の夏にアナイスに逢ったこと、その後の先生の人生に、アナイスがどのように影響し、かかわってきたのか、個人的なことをぜひ、お話しください。

以上、山口路子からの質問です。

*また、杉崎和子先生のアナイスについての文章、あまりにも心に響きますので、「ヘンリ&ジューン」「インセスト」以外の、なかなか目にふれることのないものを、書き写しました。パソコンだから、叩き写しました……になりますか。添付します。

添付したものです→「エロス幻論」青色の小冊子から。「アナイス」

こちらも→杉崎和子「ヴィーナスの戯れ あとがきにかえて」

*****

※このねちっこい質問に対する杉崎和子先生の、たおやかな「答え」はDVDでぜひご覧ください。(発売のお知らせをお待ちください。2017年2月20日現在発売日は未定です。年内には。)

*興奮のインタビューのことはこちらの記事でどうぞ。

-◆私のアナイス, ●もっと知りたいアナイス, アナイス・ニンという生き方, ブログ「言葉美術館」