◆美しい女将と今年一番のお料理
イベント後の虚脱状態と身体的な疲れで今日は一日、使いものにならなかった。
それでも、京都でのイベントの翌日、訪れた「うね乃」のことは書いておきたいと思ってパソコンに向かっている。
『ジャクリーン・ケネディという生き方』のあとがきには、何人かのお友だちの名前を出させてもらっているが、そのうちのひとりに大岩綾子さんがいる。
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「波乱万丈の人生の最後に、そんな男性と静かに過ごせたなんて、なんだか希望を感じます」と目を潤ませた、人生の転機にあった大岩綾子さん。
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と、こんなふうに書いている。
ジャクリーンのあとがきは「2014年 真冬の都会のあたたかな部屋で」となっているから、もう、あれから3年が経とうとしている。
綾子さんと私はおそらく、私たちふたりの人生が大転機(というか、どん底)にあったときに出逢った。
出逢いも、意味深かったし、その後のおつきあいも濃厚だった。綾子さんが季節ごとに開催する「暦ある暮らし」の会、綾子さんの手料理と、その季節に、その食べ物をいただく意味を教えていただける、私が大好きな会だった。
(この会のことは過去にも書いている→◆2014年4月1日「ある海辺の詩人」と「暦ある暮らし」)
あのころ、私たちはよく泣いた。
彼女の話を聞いて私が泣き、私の話を聞いてくれて彼女が泣いた。ほんとうに、つらかった時期、一緒にいたひとだった。私は、自分もかなりつらい境遇だったけれど、綾子さんの力になりたかった。美しいものへの感受性、丁寧な暮らしぶり、そして、生きるのに不器用なこのひとのために、なにか力になれれば、と私なりに動いてみた。
けれど、いつものこと、私の力不足で結局、何も形にならなかった。そんなときに彼女に「うね乃」からお話があったのだった。このお話をうけたら京都に行くことになる、そう知っていて、私は、けれど、京都をすすめた。あんまり他の人の選択に意見はしないのだけれど、あのときは、めずらしく、そのお話はうけたほうがよいと思う、そんなふうに言った。
自分の人生ならば直感で動けばいい。そしてその選択が違ったかも、と思ったら、その選択をした自分を自分で引き受けて修正してゆけばいい。けれど、自分ではない人の人生について、人は(私は)、こんなにも無責任なのだ。がんばって。どうか、がんばって。としか祈るしかなかった。自分のことで忙しくて忘れているときだってあった。
彼女が京都へ行く直前、アクシデント(そう、あれはアクシデントとしたい)があって、彼女に嫌な思いをさせてしまったことも、心にひっかかっていた。その後なんどか連絡をとったり、彼女が東京に来たときにちょこっと会うことはあっても、私は、京都にゆき、「うね乃」を訪れることがなかった。
そして、今回の京都のイベント、一泊することになり、イベント翌日、ようやく「うね乃」を訪れた。
いわゆる行列のできる大人気店で、基本的に予約はできないけれど、11時30分のみできるというので、予約を入れた。大阪在住の銅版画家小林可奈さんを誘って出かけた。
髪をぴたっとまとめて、白いエプロン姿の綾子さんを見た瞬間、胸がいっぱいになった。満席の店内のお客さんに向かって、挨拶、お料理の説明をするきびきびとした綾子さんの姿に、涙が出てきた。綾子さん……、ここまでくるの、大変だったでしょうね、と思って、ほんとうに涙をこらえるのに苦労した。
名物のしっぽくうどん(量は少なめでお願いー、とわがまま)と、綾子さん手作りの「助六」をオーダーした。
私は、あの日あのときの「うね乃」のしっぽくうどんと助六の味を忘れない。まだ3カ月残っているけど、断言する。今年一番おいしい料理を、私はいただいた。
小林可奈さんも、一口ごとに「おいしい、おいしい」と言っていた。「路子さん、椎茸、たべました? すっごい美味しい」「路子さん、この湯葉、美しい~」
彼女のそんな姿も嬉しかった。
綾子さんのお料理は、そう、人を幸福な顔にできるのだ。「暦ある暮らし」の会の記憶がふわっとよみがえった。
ふたたび、ジャクリーンのあとがきから。
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年齢を重ねるにつれて諦めたり流したりすることを覚えて、うっかりすると大切なことまで諦めたり流したりしていることもあります。それはいけない、自分の美意識に忠実に生きるためには、ときに闘うことも必要なのだと、そのための覚悟をもてと、そしてけっして自尊心を忘れるなと、ジャクリーンとの日々に終止符を打ついま、強く思います。
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これは、もちろん自分に言いきかせている言葉だけれど、綾子さんへ贈った言葉でもあったのだ。
お料理の写真もお店の写真も綾子さんとの写真も撮らなかった。私は、真の感動の瞬間は、それを写真という形に変換したくない。
*なので写真は2015年8月の「プレシャス」から(綾子さんのFBから拝借)
*仁王門「うね乃」はこちらから。