■バンコク(のホテル)滞在記*5■
2019/06/15
★26日(日)
■ハートに効くスムージー
5日目の朝。
いつもと同じ、9時ころに2階のレストランへ。
スタッフの人たち、さすがにもう覚えていて、「おひとりですか?」は少なくなった。
なかでもNさんは、ひときわフレンドリーだった。
2日目くらいかな、私がひとり、ぼんやりと食事しているとき、日本語で話しかけてきたのがNさんだった。
彼女は、日本に婚約者がいて、いま遠距離恋愛中。早く日本に行きたい、と言っていた。日本語を勉強中で、だから日本語を話したくて私のところにやってくる。
その日も私がレストランに入ると「ミチコさーん、オハヨウゴザイマスー」と、はちきれそうな笑顔で席に案内してくれる。
「毎朝、ミチコさんに会えるのが楽しみ」とか言ってくれて、お世辞でもなんでも嬉しい。
このホテルの朝食、私のいちばんのお気に入りは、毎日サービスされる、ヘルシースムージーだった。
日によって違う。「目」にいい、とか「脳」にいい、とか。
何が入っているか、そして何に効能があるか、グラスに小さな説明のイラストが描かれた紙がついていて、それも好きだった。
ただ、これがちっちゃいグラスで。
でも私がこれをお気に入りと知っていて、Nさんと、あともうひとり、男性のスタッフが、いつもサービスしてくれたな。
たいてい、ひとりに1個、のところを5つくらい飲んだ日もある。最低3つはキープ。
その日は、「ハート」にいいというスムージーだった。
Nさんが自分の胸のあたりをてのひらでおさえて、「ここにきくの」って説明したくれたとき、私はなんだか泣きそうになってしまった。
そう。私は目も疲れているし、頭も疲れているけど、いちばんは、ハートなのかもしれない……
とお得意のドラマティックヒロインモードになっただけなんだけど。
でも、たしかに、あの瞬間は、ぐっときた。
理由はいまもわからないまま。
■ぜんぜんだめ
お部屋に戻って、原稿に向かう。
のらない。
主人公が動いてくれない。
もんもんと時を過ごす。書けないのに、タンゴの音楽だけは流れ続ける。いらっとして、ぶちっと音を消す。
静寂。廊下、近くのお部屋を掃除する音。
ベッドで書いているから、そのまま、ごろんと横になる。
私はほんとうにこれを書きたいのだろうか、という疑問が湧いてくる。
尊敬する先生から「小説を書きなさい。そろそろいいだろう」と言われたことを思い出す。何人かの、私の小説が好きという人たちから、次はどんなのをいつころですか、と言われ続けていることも。
伝記物とか、言葉の本とかばかりを書いてきて、私は、物語が書けなくなってしまったのかもしれない。
きっとそうだ、しくしく。
もんもん。
どよーん。
嫌な時間が、ゆるゆるとじとじとと経過し、夕刻になった。
出かけなくちゃ。このままだと、おちるとこまでおちるだけだわ。
自分がどんなふうになると、その後、どんなふうになるのか、これは経験でわかる。威張ることじゃないけど、この先、このままホテルのベッドにいたら、最悪の状態になることだけはわかっていた。
ベッドから起きだし、のろのろと支度をする。
出かけるといっても、昨夜レンブラントホテルに行く途中、「あ、ここね」と確認したショッピングモールに行くだけ。
最低限のメイクと髪もゆるくまとめて、ワンピースをすとんと着て、ショールをもつ。建物のなかは寒いに決まってるから。
娘から「ぜったい、もってきてよかった、って思うからもっていったほうがいいよ」と言われた、エコバックを広げる。
これ、いいわ。よれよれのエコバッグのなかに、タイバーツとクレジットカード一枚だけ入れた小さなお財布とハンカチ、リップだけを入れて部屋を出る。
よれよれのエコバックをさげていればスリとかに狙われなさそう。意味不明の安心感とともに。
■ショッピングモールでウォーキング
さて、ターミナル21。
これ、巨大なショッピングモールで、それぞれの国をイメージしたフロア構成になっていて、そこがユニークらしいのだけど、私はあんまり興味がないから、書かない。
でも外の空気が苦手だから、この日から、毎日、日が落ちたら「ターミナル21」にお散歩に行くのが日課になった。とにかく広いので、なかを歩いているだけで運動になる。
ちなみに、日没後にしか行動していないから、日本からもってきた、日焼け止めは一度も使わなかった。
ショッピングモール、欲しいものがないのが残念。アクセサリーも服も、私は「これ、ほしい」って言うものに出逢うのは年に数回。ないときだってある。だから、ここにそれがある確率は限りなく低い。そして、何を見ても、やはり、心動かなかった。
もはやウインドウショッピングというより、ウォーキング、ってかんじ。
地下のスーパーマーケットも巨大で、なんでも揃う。
タイビールを3本(35バーツくらい=120円くらい)、それからミネラルウォーター(7バーツくらい=24円くらい)と、ちょっとしたお菓子、クラッカーみたいなのと、リンゴを買って、エコバッグに入れて、ホテルへ帰る。
部屋でビールを飲みながら、またあれこれと物語を考えていたら、突然、人肌恋しくなってくる。
だめ、この先もろくなことにならない。
ビール、まだ半分くらい残っていたけれど、部屋を出て3階のフロアに降りる。7時をちょっと過ぎたところ。9時までの営業だから間に合うはず。
■10分の愛情
「サワディーカー」と挨拶をして、「アロマオイルのマッサージお願いします」と言うと、受付の女性、ひどく残念そうに、「時間が遅いのでそれは無理なんです」だって。
えーん。でもひとりでお部屋にいたくない。
「何なら可能ですか?」
「フェイシャル1時間なら大丈夫です」
もうなんでもいい。
「じゃあ、それでお願いします。ボディは明日ね、しくしく」
フェイシャル、最後の15分はパック。
施術してくれていた女性が、15分後にまた、といってお部屋を出てゆく。
リラックスしてね、という音楽が流れるなか、私は思う。
私、いったい、何しているんだろう……。
思考の迷路に入りそうになった寸前、ドアがノックされ、さきほどの女性がもどってきた。まだ15分経っていない。数分。
彼女は「ちょっとだけいいですか?」と言って、私の頭から首にかけてマッサージをはじめた。えーん、きもちいいい。
それからフットリフレを少し。
そしてパックを外して、「おしまい」と言った。
サービスしてくれたのね、私がマッサージしたいって知っていて。
欲しいものが、思いがけず与えられたときの感激に私は胸がいっぱい。
それがたとえ10分だとしても、私はたしかに、彼女から同情という名の愛情をうけとった。
ついでにお肌もぷるぷる。
もちろん、チップをぶんぶんはずんで、「コップンカー」を繰り返しながら、いつものレモングラスのハーブティーをいただき、お部屋に戻った。
■枕が恋人(涙)
ぬるいビールをひとくち飲んで、何かルームサービスで頼もうとしたけれど食欲がない。
あのひとやあのひとの声が聞きたくなるけれど、がまん。
さびしい、ってメッセージ送りたくなるけれど、がまん。
だって、そんなの承知で、それでも自分で決めて勝手にしていることだから。
その夜は、いつもにも増して夜への緊張が高まって、ばくばくしてくる。
早めに薬を飲んで、そして、坂口安吾の作品の朗読「不良少年とキリスト」(太宰治の死に寄せてのエッセイ)を聴きながら、目を閉じた。
それでも眠れない。
たくさんある枕のひとつ、大きいのをぎゅっと抱きしめる。
つぎの朗読「教祖の文学」(小林秀雄のことについてのエッセイ)が、たぶん、終わるころ、ようやく眠れたようだった。
そして翌日は、旅行中、最悪の1日だった。
……。
それにしても。
なんてつまらない旅行記なのだろう、と書きながら思う。
早く終わらせてしまおう。
★27日(月)
朝、目覚めたときから、どよーん、としていたので、今日は無理に原稿に向かうのはやめよう、と決める。
昨夜できなかったマッサージと、ターミナル21へのお散歩をすればいい。
その日のターミナル21では、ドラッグストアで長時間を過ごす。水が硬水なので、肌や髪が荒れてきている気がしたから、きれいになれそうなボディローションや、トリートメントなどを調達。
スーパーマーケットで、本格的なスムージーとタイビールと、それから、テイクアウトのあれはなんていうのだろう、点心みたいなののセットを買う。その場で蒸してくれて、温かいのをホテルで食べる。
■私が書くべきものは
MacBook に向かい、午後にマッサージを受けながら思ったことを書き留める。
その前に、いま、思い出したこと。
そうだった。私、27歳のときにパリにひとり旅をして以来、ってこの旅行記の最初にも書いたけど、42歳のころだったかな、パリとバルセロナにひとり旅をしていたんだった。あのときは、むこうでお友だちと会ったりしていたから、ひとり旅のイメージがなかった。
「サガンという生き方」を書いて、どうしてもサガンに想いを馳せたくて、パリに行ったのだった。バルセロナはピカソをリサーチするためにちょこっと寄った。
あのときは、目的があったからな、毎日いろんなところに出かけていたし、今回のとはまるで違う。
マッサージ中に思ったことに戻る。
私が書くべきものはフィクションという形ではないのかも。
好きな作家、須賀敦子、彼女はエッセイという形で60をすぎてデビューし、美しく深い文章で熱狂的なファンを獲得(私もそのひとり)、10年くらいの活動で病気で亡くなってしまうのだけれど、晩年、小説という形式が果たして最良のものなのか、エッセイでも小説でもない、そのあたりに自分の書くべきスタイルがあるような気がする、というようなことを言っていた。
それをふと思い出した。
須賀敦子が言うことと私とでは違うのだろうけれど、なにか、共通項はあるように思う。
「軽井沢夫人」だって「女神 ミューズ」だって自伝的小説だし。
でもノンフィクションでは、このブログもふくめて、書けないことが多過ぎてフラストレーションが爆発しそうだから、フィクションという形式が必要なわけで。
ああ。わからなくなってくる。
もう、私の人生、ありのままをぜんぶ、さらけ出してしまいたい。だって小説よりもずっとそのほうが、嘘みたいに、あれこれあったりするから。そうよ、自分で言うよ。
そのような内容のことを、お友だちに送る。
彼は言う。「フィクションであっても、たしかに貴女の言葉があり、それがここちよい」と。
そして、「とりあえず、書きたいことを全部ありのまま書いてみたら。それから考えたら」と。
そうか。物語を書くぞって、つくりこもうと力みすぎて、ゆきづまっているのかも。
彼の言葉でその夜は、それから数時間、物語を進めることができた。
私はやはりひとりでは生きてゆけない。