■緊急事態8日目。ツイッターと死とお花屋さんと小さな光
数日ぶりに最寄駅近くまで出かけた。18時ころ。
商店街にはひとがたくさんいて、くらりとめまいがした。こうして緊急事態×日、なんて記録をつけていることと、目にしたこととのギャップ。
家にこもっていると、見えないことがある。
今年2月8日から、ツイッターを始めて、これは仕事がらみで始めたほうがいい、という周囲からのアドバイスを受けての判断だったのだけれど、ぜんぜんフォロワー数増えないし、毎日言葉をアップするのも大変だし虚しくなってきて、いいえ、それより、この世界がどうもだめ。
現実世界でこんなに生きにくい、って思っているのに、ツイッター世界はもっと生きにくいかんじ。
言葉の使い方からして嫌。
〜しろよ。とか、〜なんだよ、わかってないね。
みたいなのが多いような気がするのは、私がフォローしているひととその周辺のせい? それとも全体的にそういうのが多いの?
彼らが初対面のひとと話すとき、どんな表情をして、どんな言葉遣いで話すのか、すごく知りたい。
2ヶ月が経過して、これはだめだ、向いていないんだ、と判断。アカウント削除しようかとも思ったけれど、ちょっと考え中。
昨夜は、「死」について考え始めたら止まらなくなって、結果、いまある生、余生を、少しでも艶やかにしたい、という結論に。
朝、信頼している鍼灸の先生からの情報で、この記事を読んだら、昨夜、私が考えていたこととテーマがひどく似ていて驚いた。↓
人は家畜になっても生きる道を選ぶのか。/コロナパニックについて考える。
バランスの問題なんだな。ほんとうに。
そして軽くメイクをしてから隣のお花屋さんに行き、花を買ってきた。大学4年生、家にこもってあれこれと新しいことを始めている娘用にも小さな花束を買った。
お花屋さん、忙しそうだったので、「やはりこういう時期だとお花の需要増えますか?」と尋ねると、はい、という返事。私は「そうですよね、お部屋に花が欲しくなりますものね」と言って、泣きそうになる。
よくない兆候。なんとかしないと。
白いトルコキキョウとピンクのカーネーションを選んだ。
そうそう。読書。
ハンナ・アーレントの『暗い時代の人々』を読み始めているけど、む、難しい。
「レッシング、ローザ・ルクセンブルク、ヤスパース、ヘルマン・ブロッホ、ベンヤミン、ブレヒト……自由が著しく損なわれた時代、荒廃する世界に抗い、自らの意思で行動し生きた10人。彼らの人間性と知的格闘に対して深い共感と敬意を込め、政治・芸術・哲学への鋭い示唆と敬意を込め、政治・芸術・哲学への鋭い示唆を含み描かれる普遍的人間論。」
ってあったから、「これはいま読むべき本だわ」と購入したのだった。
ハンナ・アーレント、映画ですごく好きになったし、ローザ・ルクセンブルクについても書いているし。
ローザ・ルクセンブルクの章だけは読んだ。でも半分も理解できていないと思う。涙。
「はじめに」のラスト、ラインを引いたところだけ書き留めておこう。
***
私がここで用いようとしている広い意味での「暗い時代」とは、実際怖るべき斬新さを持った今世紀の極悪非道な行為それ自体と同一のものではない。むしろ、暗い時代は新しいものでないばかりか、歴史上まれなことでもない。(略)
最も暗い時代においてさえ、人は何かしら光明を期待する権利を持つこと、こうした光明は理論や概念からというよりはむしろ少数の人々がともす不確かでちらちらとゆれる、多くは弱い光から発すること、またこうした人々はその生活と仕事のなかで、ほとんどあらゆる環境のもとで光をともし、その光は地上でかれらに与えられたわずかな時間を超えて輝くであろうということーーこうした確信が、ここに描かれたプロフィールの概略的な背景をなしている。
われわれのように暗さに馴れた目には、かれらのともした光がろうそくの光であったか、それとも燃えるような太陽のそれであったかを語ることはむつかしい。しかしこうした客観的評価というものは、私にはあとから生まれるひとびとに無難に残される、二次的な重要性をもつものでしかないように思われる。一九六八年一月
***
暗い時代はいつだってある。
どんな環境のもとでも、すっごく小さなものでも、不確かなものでも、光をともすひとになれたら、いいな。
あとは過去の私におまかせして、今日はこれでおしまい。
*ローザに関しては、朗読もあったわ。「うっかり人生がすぎてしまいそうなあなたへ」から「感傷にひたることの効能」