■緊急事態下日記 ◇おしらせ ブログ「言葉美術館」

■緊急事態4日目。「こわれる」と古い皿とヴァイタリティと

 

 もともと引きこもり生活を送っているのから、「緊急事態宣言」が出たって生活は変わらないでしょ。とはよく言われる。

 会社に勤めている人と比べれば変わらないかもしれないけれど、タンゴは踊れないし(これかなり打撃)、好きな人と会えないし(これもかなり打撃)、食事をともにすることもできない(しくしく)。

 年が明けてから、外出を心がけ、一日に数時間カフェで書くなんてことがようやくでき始めていたから、なおさらキツイ。

 コロナ禍、刻一刻と情勢は悪化し、ひと月前と今とではまるで別世界。私は外出を控え、人に会わない生活を送っている。

 感染するのもこわいけど、なにより、たいせつな人たちにうつしてしまうことがこわい。我慢することで少しでもそれを抑えられるなら……そう思ってひきこもっている。

 私はずっとずっと、サガンと同じように「破滅するのは私の自由よ」って思ってきた。

 けれど感染症にこれが通用しないのは、破滅するのは私だけではないところ。だから今回の場合、これは適用されない。

 映画を見続けるのかな私。と思っていたら違った。原稿を書き、それ以外の時間はほとんど本を読んでいる。こんなに読書しているのは久しぶりだ。タンゴとデイトの時間が、そのまま読書にかわったかんじ。

 『サガン 疾走する生』を読み返した。

 以前はラインが引かれていなかった箇所にブルーの色鉛筆でラインを引きながら読んだ。

 著者はサガンの親友フロランス・マルロー(アンドレ・マルローの娘)にインタビューをし、すっかりフロランスのファンになっていて、フロランスについてかなりのページを割いている。

 フロランスが「これは一生ものの本」と言うのが、フィッツジェラルドの『崩壊』。

 晩年、まったく書けなくなったフィッツジェラルド、原稿を催促されて、「書けない書けない書けない……」で埋めつくした原稿を送ったこともあるくらい。そんな彼が「書けないということについて、書けるだけのことを書こう」として書いた作品。

 同じくサガンの友人の作家ベルナール・フランクはこの『崩壊」はカミュの『転落』を超える傑作だと言う。

 え。『転落』って私、とても好きなんだけど。それを超えるって。

 私、読んだはずよ。どんなのだっけ。フィッツジェラルドの『崩壊』を書棚に探す。

 そうだ、たしか、中田耕治先生が編んだ短編集のなかにあったはず。

 『S・フィッツジェラルド作品集 わが失われし街』

 この作品集は中田先生が声をかけた14人の翻訳者が20編の短編を手がけている。

『崩壊』はさいごにあった。中田耕治の訳で!

 ただし、タイトルは『崩壊』ではなく『こわれる』。

  原文はCrack UP。

 中田耕治は書く。

***

 これまでは例外なく「崩壊」と訳されている。名詞としての意味はたしかに崩壊なのだが、この訳語はどんなに多くのあらぬことを連想させたか。これは内容よりも訳語にまずなんらかの意味があると見てかからなければならない表現なのだ。むろん、気がついたときはもう手遅れだが。

 もし崩壊とするなら、それは何かの状態がたもたれていて、それが崩れるというプロセスを想定しなければならない。両者に共通する印象なり概念があって、それについて出発というか、崩壊の最初の部分を認識しなければならない。フィッツジェラルドにそういう含意があったことは間違いないが、これをふつうの動詞と見れば、ええくそ、ここに進退谷まれり、とか、もうイケねえ、といった、いたましいニュアンスが出てくるので、わざと「こわれる」としてみた。

***

 さすがだな、中田先生。言葉に対する、きびしくするどい視線をもつ中田耕治訳の『こわれる』を、一語一語を噛みしめるようにして読んだ。

 涙が出てきたよ。

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 人の生涯というものは、崩壊の過程ではあるが、人生に劇的な役割をはたすほどの打撃ーー思いがけず外側からやってくる、少なくとも不意打ちといった大打撃ーーいつまでも心に残って、自分でぼやいたり、つい気が弱くなって友人にこぼすといった打撃なら、もろに深刻な被害をかぶることもない。ところが内面から叩きつけてくるような打撃もあるーー気がついたときには何もかも万事休す、もう二度とまともな人間にはなれない、としたたかに思い知らされるような打撃。外側からやってくる打撃なら、それにともなう壊れかたもたちまちあらわれるが、内側からの打撃は、やられてもまず気づかないかわり、取り返しのつかない致命傷になる。
 この短い手記をつづける前に、一般論をのべておこうーー 一級の知性というものは、お互いに対立する概念を同時にもちつづけながら、はっきり自分の基準をたもっている知性である。

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 冒頭からこれだもの。ああ。

 そして17年の作家人生をふりかえる。

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……じつに雑多な新しい仕事が、明日こそはという思いにつながった。「四十九歳までは大丈夫だよ」とほざいた。「そこまでは自信がある。ぼくみたいな生き方をした人間は、それ以上のことは望まないよ」
ーーといいながら、四十九歳まであと十年、というところで、早くも作家として挫折したことに不意に気がついた。

***

 誰にも会いたくなくなり、町を離れて日常の雑事すべてと絶縁して、何もしない日々を過ごす。いいえ、ひとつだけしたことがある。さまざまなリストを書き出した。何百枚も。そしてそれらを破った。そして、こう書く。

***

ーーと、驚くなかれ、突然、私は恢復した。
ーーしかも、それを知ったときの私は、古い皿のように壊れていた。

***

 ここで私はもう、どうにもならなかった。

 人が壊れるときって、そう、古い皿のように壊れる。

 どのように壊れたのかもわからない。音も聞こえなかった。ただ、壊れていた。私にはそれがわかる。

 フィッツジェラルドは四十九歳を待たずに、四十四歳で死んだ。アルコール中毒などで健康状態が悪化するなか心臓麻痺で。

 フィッツジェルドを思うとき、いつも頭の半分にゼルダがいる。ゼルダ。フィッツジェラルドの妻。彼女のことを思うと、フィッツジェラルドのこの作品も、また違った色彩を帯びる。

 きりがない。ゼルダのことはまた、別に書こう。(過去の記事はこちら)

 私はいま53歳のおわり。フィッツジェラルドの44歳も、彼がここまでって設定した49歳も超えてしまった。

 20年くらいものを書いてきたはずなのに、私はいったい何を残しただろう、って考えると絶望しそうになる。

 

 『こわれる』のなかにある一文。

「ヴァイタリティーはある人にはあるし、ない人にはない」

 ヴァイタリティーって、ラテン語の「命」に由来する言葉。

 生命力。生きる底力みたいなもの。私はある人なのかな。

 世界中が震撼しているなか、ヴァイタリティーって言葉が、またひとつ違った意味をもつように思える。

(おしまい)

*追記:宣伝忘れちゃった。「サガンという生き方」もよろしくね。

 

■文中にあるように、タンゴとデイトの時間が読書に変わっているので、コロナによるひきこもり時期、読書日記めいたものを書いていこうと思います。

 

 

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