▽『薔薇は死んだ』――クルチザンヌ(高級娼婦)への憧憬
私の世界から私自身が遠ざかっていたのでは。
と意味不明な疑問を抱いたのは、美しくてエロティックでスリリングな映画『薔薇は死んだ』を観たから。
第一次世界大戦前夜のオーストリア・ハンガリー帝国の首都、「ドナウの真珠」なんていう素晴らしい名でも有名なブダペストが舞台。
ヒロインはクルチザンヌ。これ、フランス語で高級娼婦。「高級」がポイント。
この映画は、ひとりのクルチザンヌ(高級娼婦)殺人事件の謎ときの物語で、実話をベースにしている。
それで、クルチザンヌのエルザが、いろんなことを私に教えてくれて戒めてくれたものだから、いま、ちょっと人格がずれているかも。
かつての私のバイブル映画のひとつ『カーマ・スートラ 愛の教科書』の惹句「女であることのすべてを使って生きていますか?」を思い出したりしているもので。
欲しいもの(お金持ちのいい男)をつかむことよりも、その男を手放さないでいることが難しい。
そうエルザ本人が言う通り、それは難しいって、私でもわかるけれど、ほんとうに、彼女はうっとりするほどに男心を操るのが上手。
でも、殿方は操られたい(操られていると意識しないで、いい気持ちでいたい)のだから、それができてこその、クルチザンヌ。
私はいくつかのシーン、エルザからそのあたりの極意を学びました。もちろんここでそれを披露するなんて馬鹿な真似はいたしませんが、ひとつだけ。
それは、ぜったいにすがりつかないこと。そう、あなたがいなきゃだめ、なんて死んでも言っちゃだめってこと。……しゅん。
おまけの、もういっこ。
浮気が発覚しても、それを「あなたのせいよ」と正々堂々と言い、「あなた」を「そうかも」→「きっとそうなんだ」→「僕が悪かった」とさせてしまうこと。
ついでにもういっこ。
いくつかの浮気の実例を挙げられても、「問題はそれだけ?」と、「うっそ、それだけ?」みたいなかんじで対応し、「それが問題なら、解決は簡単。私これから貞節を守るわん」と、「なーんだ、そんなことなら簡単、そんなことで悩んでいるなんてびっくり」的にしてしまうこと。
これらは、視線の動き&強さのマジックに加え、ひとつひとつの表情、しぐさが美しくなくては不可能だし、そもそも、ものすごく頭が切れないと無理。
文字にすると簡単そうだけれど、簡単なわけがない。よいこは真似してはいけません。
ただ、年下の女の子へのエルザの「教え」にはすべてがあるかもしれない。「胸をはって。堂々としていなさい」
精神的にも肉体的にも、ここに美の力の核が、きっと、ある。
それにしても、この映画、3人の女性が、それぞれに魅力的で、さらにヒロインのエルザに翻弄される男爵(マックス)が、もう、私の好みど真ん中で、性愛シーンも、短いんだけど、うっとりぞくぞくで、私の好きな映画の一本になりそう。
エルザは35歳という設定、ラストのほうで、鏡を見つめ法令線をゆっくりと撫でる、老いへの恐怖が痛々しい。35歳で……。私はといえば、「……ああ、私はクルチザンヌになりたい……50だけど……」なんて馬鹿なことをブツブツと言いながら、あ、でも、「50歳のクルチザンヌ」というタイトルの映画があったらヒットするかも、いやいや無理でしょう、特殊なジャンルに入れられて終わりね、きっと……、なんてどうでもいいことをつぶやきながら、もしかしたらこの映画は、あとから考えれば何かの「きっかけ」になるかもしれない、とも考えている。
「クルチザンヌ」と、あと「ドゥミ・モンド」って言葉がフランス語にはあって、これは要するに裏側の社会、みたいな意味なんだけど、このあたりも深めていったら面白いだろうなあ、と思いつつ、放っておいて、いまこんなに惹かれているわけだから、いまがその時期なのかもしれない。
そう。また、深めてみたいテーマが生まれた気がする。クルチザンヌ。いまの自分にふさわしい(注:研究対象として)かんじもして。そう、愛する坂口安吾もクルチザンヌの女王マノン・レスコーが大好きだったことだし。どうでしょう、路子ワールド的クルチザンヌ。
それから、まだ書いておきたいことがあって、それは自分を「善人」であると思いこんでいる人は、やはり私にとって一番怖い人なんだ、ということ。ラストシーンにからむから、詳細は書かない。
唐突だけど、ゴッホを監禁してくれと訴えた村人たちによる署名は「善良な市民たちより」で結ばれていたことを思い出した。自分は善人。そしてあの人は悪人。疑いなく言えてしまう人が私はおそろしい。身近にも生息しているに違いないから油断禁物、注意しないと。
それにしても、全体的に、ブルー、水分たっぷりの冷気、霧、むせかえるような香水、そんなイメージで刻印されそうな、美しい映画だった。『キャロル』と似た香りがした。