◆ワッツの『希望』
内面の葛藤で涙することは(しょっちゅう)あっても、外部からの問題によって涙することはずいぶん減ってきたと思っていたから、久しぶりだった。
けれど外部からの問題も、もとをたどってゆけば、自分自身の問題であり「私という人間の現実」を眼前につきつけられて、過去を悔やむ。後悔はしてません、なんて私は言えない。いろんなことを後悔してばかりだ。もちろんそのなかから得るものもあっただろう。けれど、それはマイナスの事象のなかから何とかしてプラスのものを拾い出したいという自己肯定欲求に過ぎない。
敬愛する作家のサガンは、「人は不幸からは何も学ばない」と言い、苦難が人を育てるという考え方に対して、別の視点を提示しているけれど、私も、サガンのこの言葉には真実が隠されていると思う。それこそ、この言葉の行間に真実が。
波乱の人生を歩んだジャクリーン・ケネディは「不変なものなんて何もない。これが人生を通して私が学んだこと」と言ったけれど、ここ数日は、またまた、この言葉が身に染みている。
かくじつに変化するものは何?
と考えていまはすぐに「人の気持ち」と考えてしまう。
天気だってころころ変わる。流行も移り変わる。けれど、天気も流行も、不変を約束しない。
人は変化しないことを、とくに恋愛関係においては、約束する。そして、かくじつに、変化する。心変わり。心変わりは罪ではない。当然のことだ。
わかってはいても、こんなにせつなく苦しい。恋愛から情愛へ移り変わりました。そこまでだったら、まだ苦しくない、せつないけれど、苦しくはない。その情愛すらなくなることが、私は苦しい。
それでも親しい人に、自分の苦境を相談して「命とられるわけじゃないから!」と笑いながら励まされて、それもまたその通りだと、少し元気になったりもする。
みんな、いつ死が訪れるかわからない生を生きている。毎日毎日、刹那が余生だ。生まれた瞬間からそうなのだ。
そう思うと、どれだけ余生を充実させるか、そこに集中すればいい、とそんなふうにも思えてくる。
締め切りが迫っている原稿に集中できなくて、あたまがおかしくなりそうで、真夜中にまったく関係ない映画を観たりする。
ひとつは『最高の人生の見つけ方』。
その冒頭の言葉に胸をうたれた。
人間の価値は何で決まるのだろう、という問いかけがあり、お金とか愛とか色々出てきて、最後こんなふうに結ばれる。「人にどれだけの影響を与えることができたか、ではないか」と。これ、正確な引用ではないけれど。
もうひとつは『私は、ダニエル・ブレイク』。
善意で生きてきた人が人生の最後、嘘のような苦難を味わう。その苦難に彼は必死で立ち向かう。そのなかで「どうしてもそれはできないこと」を拒絶するときに、彼が言った「これは自尊心の問題だ」、この言葉が頭から離れない。
自尊心!
以前には、もてあますほどにもっていたはずの自尊心。少しずつ少しずつ手放して、私にはあとどのくらい残っているだろう。
めそめそ、びーびー泣いていた一日の終わり、親友からのラインにあった言葉。
「弦は一本残っているよ」
「きれいなものを信じて生きていこう」
私がワッツの『希望』をインスタグラムにアップしたのを見てのメッセージだった。
ワッツの『希望』
以前『フラウ』の連載で扱った記事の一部から。
***
地球を思わせる薄茶色の球体の上に、目かくしをした女性。
竪琴を大切そうに抱え、最後の一本の弦を爪弾く。彼女の魂は一本の弦が奏でる微かな音色に集中する。
全体に薄暗い淡い色調が、あきらめに似た「絶望」を感じさせる。
けれど一本の弦がある。
それは、絶望のなかでの彼女のたった一つの、ぎりぎりの、希望。
人はその状況は戦争であったり、人生そのものであったり、そして恋愛であったりするけれど、この絵のような「希望」を経験しているはずだ。
絵のなかで耳を澄ます女性。彼女は、その音色を聞いたのだろうか。
この絵についてのちょっとしたエピソードがある。
1967年、中東戦争でイスラエル軍に惨敗したエジプトの兵士たちに、『希望』の複製が配られたという。
戦争そのものがなくなることこそが希望だと思うけれど、それは別として、この配布を企画した人は、絵の女性が爪弾く弦の音色を聞いたのだろう。それはきっと、繊細で美しい音色だったに違いない。
***
写真、左は軽井沢の家での写真。雑誌に掲載されたもの。右のは軽井沢の家からもってきて仕事場に飾ってある現在。
私の人生を支えている大切な一枚。
*「ワッツ 希望」でサイト内検索したら、いくつか出てきた。大切な一枚、ってどれにも書いてあった。