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■全盛期と「ぶっこわれたカンパネラ」

 目覚めた瞬間、「ぶっこわれたカンパネラでいいじゃない」、という声が聞こえてきて驚いた。

 夢の続きとは思えなかった。まったく別の夢を見ていた。

 好きなピアニスト、フジコ・ヘミングの言葉だった。

 20年くらい前に、用賀の自宅マンションで、なんとはなしにつけていたテレビで私ははじめて彼女を知った。いま調べてみたら1999年2月11日に放映されたNHKのドキュメンタリー「フジコ~あるピアニストの軌跡」で大ブレイク、とあるから、私はきっと再放送を観たのだろう。1999年2月11日は、実家にいたからだ。2月17日に娘を産んだ。

 その番組は強烈だった。なんといってもフジコの存在感が尋常ではなかった。

 映画にしたって、そんなドラマティックなのはやりすぎでしょ、と言われるような人生を彼女は歩んでいた。

 少女のころから天才と騒がれ、順調にピアニストとしての道を歩み、ヨーロッパで音楽活動を行い、その才能を認められるけれど、大切なリサイタル直前に風邪をこじらせたことが原因で聴力を失い、ほとんど忘れられた存在となる。

 日本に帰国してピアノ教師をしながら生活をしているフジコを取材して番組をつくったひとはすばらしい。この番組が大反響、フジコ・ヘミングは演奏家として返り咲くのだから。

 煙草を吸いながら、自宅でピアノを気ままに、けれど愛情たっぷりに弾くその姿は、とてつもなく魅力的だった。

 年齢はそのとき公表されていなかった。けれど、調べてみれば1932生まれ、と出てくる。ということは、あの番組放映時は67歳。現在は85歳、演奏活動を続けている。

 いま公開中のドキュメンタリー映画「フジコ・ヘミングの時間」も観にゆきたい。

 20年前、私はフジコのある言葉にひどく胸をうたれたのだ。

 それが今朝、聞こえてきた「ぶっこわれたカンパネラでいいじゃない」。

 リストの「ラ・カンパネラ」。超絶技巧を必要とするこの難曲をフジコは得意とする。けれど、いつも同じようには弾けるわけないし、そのつもりもない。機械じゃないんだからさ、と言う。

「私はミスタッチが多いの、でもいいの、批判するほうがおかしい」という言葉も好き。

 いつだったか、フジコを知るひとから、「彼女の若いころはすごかったんだよ、全盛期ね、すばらしかった、いまはやっぱり指がね」、という言葉を聞いたことがある。聴力を失う前のことを言っていたのだろう。

 たしかに、そのテクニックだけをみれば、そうなのかもしれない。

 けれど私は彼女の、いま現在のカンパネラが、ピアノが好きだ。

 人生の辛苦の川の流れのなかで、ときに流れに身をまかせ、ときに絶望して沈みかけ、ときに流れにあらがって懸命に手足を動かし、ときにあきらめて、それでも生き続け、唯一無二、ほかのひとには不可能な音色を奏で続けている、そういう彼女の音楽世界が好きだ。

 全盛期とはいったいなにをもって言うのだろう、と考える。

 そしてさいきんの依頼原稿のテーマ「大人の美しさ」とつなげてさらに考える。

 私がいままでに書いてきた女性たちのなかで、年齢を重ねるごとに魅力的になっている、と思うひとは何人もいるけれど、いますぐに思い浮かぶのはやはり、本にはなっていないけれど、アナイス・ニン。

 70歳を超えてあんなに色っぽくてかわいくて繊細で寛容な美しさをもつひとは、そういない。

 末期癌におかされて、余命わずかというとき、からだも、そして外見もひとには会いたくないというほどだったけれども、家中を音楽で満たしてほしい、という希望をパートナーのルーパート・ポールに伝えたという、そのエピソードだけで、アナイスが70数年ずっとたいせつにかかえてきた内面の美をみて泣けてくる。

 すべては、そのひとの価値観、見る側の、判断する側の、感想を言う側の価値観、ということになるのかもしれない。

 なにに美を見るか、ということなのかもしれない。

 フジコのテクニックがすばらしかった若いころの演奏に美を見るか、それとも、80歳を超えた彼女の演奏に美を見るか。

 これって、タンゴの世界も同様で 私がタンゴをはじめたきっかけのマリア・ニエベスもそう。

 彼女の場合だって、多くのひとが言うところの全盛期はきっと若いころなのだろう。けれど私は80を超えてからの彼女のタンゴに、どうにもあらがえない魅力を見る。

 

 つなげてつらつらと考えていると「大人の美しさ」についても、今日はこんなことを思う。

  若いころのほうが魅力的だった、以前の作品のほうがよかった、と、誰かに言われていたとしたら。

  それはそれでいい。それはそのひとの価値観なので、それほど反応はしないと思う、たぶん。……ちょっとだけするかな。

  ただ、すごく肝要なのは、私自身が「若いころのほうがよかった、ましだった」と思うか思わないかだ。

 私、20代、30代には戻りたくないし、ましてやつらいことがたくさんあった40代なんて絶対いや。

 だけど、そんなシーズンを過ごしてきたからこそ、わかったこともある、といまは認めている。

 肉体の老化はどうしようもない。身体はもちろん変化している。肌の張りに美を見るひとにとっては、実年齢が若かったころのほうがよかった、となるだろう。

 けれど、精神の老化のほうが、私にとっては問題。

 精神の老化ってどんなことかな。

 もうこんな年だからと、「年齢を理由に」なにかを諦めたところから精神の老化は始まるような気がする。

 好奇心が薄くなる、感動することが少なくなる。なんでも知ったような気になる。細く長く、という考え方をするようになる……。

 大人の美しさ、って精神の老化と関係があるかもしれない。

 まだまとまらないけれど。

 

 過去を想えば、ほとんどのことを諦めて生きていたシーズンがあった。

 その諦めは年齢が理由ではなかった。とはいえ、あのころの私は、肌の張りは、いまよりあったけれど、精神的には、いまより老いていた。

 そう考えると、いまだって、さまざまな問題をかかえてはいても、そしてこの根本的にネガティブらしい性質は変わってはいないとしても、私はやはり「若いころのほうがよかった、ましだった」とは思えない。

 精神的に私ったらぜんぜん老化してないわよ、なんて、とてもじゃないけど言えないんだけど。

 さまざまな場面で、愕然とすることも増えている、それも事実なんだけど。

 けれど、書きたいことが次々と頭に浮かび、分身の術が使えればいいのに、くらいに仕事への情熱があり、タンゴを踊る時間を確保するために原稿に向き合って夜をほとんど徹しても、精神的にはよい状態だし(肉体的にはきびしいけど)、心身ともに、しんそこ満たされる時間もあるいま現在を私は愛している。

 

 久しぶりにブログを書いたな。

 いま、とりかかっている原稿ふたつとタンゴと日々の雑事と、とにかく余裕がない日々を過ごしている。

 シャネルは言っていたっけ。「仕事があり、恋がある。そのほかの時間なんてあるわけないでしょ」って。

 これにちょっとだけ近い状態、と見栄をはりたいところ。

 

 ★以前にも「ぶっこわれたカンパネラ」について書いていました。↓

■■ぶっこわれたカンパネラ■■

 

 

 

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