■自死とカミュとドン・ファンと
おもしろいもので、ここのところ「自死」についてあれこれと調べたり本を集めたりしていたら、そんなつもりじゃなくて(シャーロット・ランプリングが出演しているからってだけの理由)観た映画「ベロニカとの記憶」のなかにカミュの言葉が引用されていて、ちょっとびっくり。
「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである」
これ、カミュの「シーシュポスの神話」の冒頭。
ふと思い立って書棚からくたびれた文庫を取り出して読み始めたらとまらない。
カミュの「異邦人」に、異様なほどに惹かれたのはもう30年くらい前だと思う。「シーシュポスの神話」をはじめて読んだのはいつだったか、たくさんのページが折られ、ラインが引かれていた。
いちばんラインが引かれていたのは「ドン・ファンの生き方」の章。やっぱりねー、って笑って、あらためてじっくりと読んだけど、私やっぱり、カミュが好き。( 2006年に同じこと書いてた)。
今日、もっとも刺さったのはこんなところ。
愛については「いくつかの自殺の仕方があるが、そのひとつは全的な献身と自己自身の忘却である」。
「ドン・ファンは他のひとと同じように、これが感動的でありうることを知っている。だがかれは、重要なものはそこにはないということを知っている数すくないひとのひとりなのだ。」
「かれはまたはっきりと知っている。大いなる愛のために自分の個人としての生き方に完全に背を向けてしまう人びとは、おそらく自己を富ませることになるが、かれらの愛が選んだ相手を確実に貧しくさせることにもなるということを。」
そうね、愛する相手ただひとりだけを見つめて、追い求めて……それってすばらしいことだとは思うけれど、別の面から見ればどうなのよ、ということ。
「ドン・ファンを動かすのは別の愛であり、それはひとを解放する愛である。この愛はみずからとともに、世界の面貌のすべてをもたらしてくる。それが戦慄するのは、それが滅ぶべき宿命にあるということをみずから知っているからである。」
だからドン・ファンは自分だけの新しい在り方を発見した、ってカミュは言う。
「それはかれに近づくひとを解放するのとすくなくとも同じだけかれ自身を解放するような在り方だ。みずから束の間のものであり同時に独自なものでもあると知っているような愛、それ以外に高邁な愛はない。」
「こうした愛の死のすべてと愛の蘇りのすべて、それこそがドン・ファンにとって、かれの生の稔りの束をなすのである。これこそが、あたえ、かつ生かすかれのやり方である。」
こうして書きながらひじょうに心が安定してくるのは、ここに私の居場所があるからだ。
そう。ドン・ファンが女から女へわたり歩くのは、愛が不足しているからではなく、女を愛することに熱中するのが好きだから。ただそれだけ。それぞれにちょっとずつ、じゃなくて、ひとりひとりを「たっぷりと愛する」ことが好きだから。ただそれだけ。
アナイス・ニンとも通ずる気がする。
私にはいまどうしても書きたいものがある。それについて考えていると時間なんてあってないようなもの。「自死」ってことを冒頭にもってこようかな、って考えれば「自死」についてあれこれ知りたくなって本を集めて、なんてことをしちゃうから、なかなか進まないけど、たぶん、この作業、この過程こそがたいせつなんだわ、と言い聞かせている、そんな日々。