ブログ「言葉美術館」

■朗読劇「ミューズ」で自分に励まされた記念日の話

 

 

 これは前回の記事に連なるものになる。
 

 出かける用事があり、少しでもましに見えるようにメイクをして着替えて、30分くらい半端な時間ができた。

 なんとはなしに、ユーチューブを開いた。そうしたらお勧め動画に自分のが出てきた。

 4年前の12月に50歳記念イベントのひとつとして開催した「朗読劇の試みーー『ミューズ』」の動画だった。

 こういう、自分の動画なんてほとんど観ないのだけれど、なぜだろう、理由はわからないけれど、ボタンを押していた。

 最初の20分くらいしか時間的に観られなかったけれど、20分を観る前とあととでは、別人のようになっていた。観る前は気力ゼロ、欠落感に支配されていたかんじ。それが、

 「ああ、私、だいじょうぶ」

 って感覚になれたのだから、別人のよう、って間違っていないと思う。

 そして出かけて、用事を終えて帰宅して、その夜は久しぶりに眠れた。そして翌日、朗読劇の残りを観た。じっくりと。

 4年前。そう、50歳記念の写真展と合わせて企画したのだ。

 このときの私は、ほんとうに孤独のなかにいた。さびしくてしかたなかった。タンゴをはじめて数ヶ月、娘の受験期だったから、彼女の生活に合わせていた。5時に起きて2食分のお弁当を作り、夜も遅くならないように帰ってきた。昼間、仮眠をとって仕事をしていた。そして、しつこいけれど、ひじょうにさびしかった。

 それなのに、こんなイベントをしている。

 小説「女神 ミューズ」の主人公エリのセリフ、エリの選択、その情熱。

 そして作家自身の語り、朗読。

 私は動画を、ちょっと言葉に言い表せない不思議な感覚のなかで観た。引きこまれて、最後は泣いていた。私はこのひとが、このひとの感覚……情感、熱が好きだと思った。

 そして、このひと、とは、ほかの誰でもない、私なのだ、って思ったとき、なにかが消え別のものが生まれた。私のなかで、ものすごい変換がおきたことが、おどろくほどによくわかった。

 人は変わる。けれど変わらないところだってある。ここには確かに私自身がいる。これが私よ、しっかり見てよ、と自分に言った。

 ああ。私は私を失うところだった。私自身を貶めてしまうところだった。自分で自分の人生を歩む、ってたいせつな核を見失うところだった。

 自分の過去の動画で自分を取り戻す、自分に励まされるだなんて、やはりこのひとは、そうとうのナルシスト、って言われたってかまわない。こんなことが起こったことを記しておきたい。

 だって、この体験は自分でも、ほんとうにびっくりだったから。

 映画でも、コンサートでも、これに似た感覚を得られることもある。

 けれど、自分がしたことから、それを得られることの強みははかりしれない。

 

 あれから4年。

 どこかのかみさまからのプレゼントがふりそそいだような数年間があった。だからいいじゃない。それをたっぷり享受したのだから、いいじゃない、ってそう思えた。

 なにより、私は、ほら、こんなに自分自身の人生を歩んでいる。その記録がこんなにくっきりと、映像として残っている。

 かなり頻繁にへなちょこになるけれど、暗闇におちるけれど、それでも、自分の人生を、できうる限り望ましいやり方で歩んでいる。

 だから、だいじょうぶ。

 だいじょうぶだから、そう、自分のことばかりじゃなくて、周囲のほかの人たちのことを考えて。できることをして。すべきことをして。書くべきこと、書きたいことを書いて。私。

 私ならできるはず。

 そんなふうに思えた、一瞬かもしれないけれど、確実にそんなふうに思えた、ちいさな記念日の話。

***

↓再生回数がわずかだなあ、って思うけど、88分って長いけど、観ていただきたい人たちに観ていただきたいので、ここに再び紹介します。

 

*関連の記事のリンクはこちら。

◆朗読的の試み『ミューズ』のあとで

◆朗読劇の試み『ミューズ」の余韻のなかで

◆朗読劇の試み『ミューズ』動画アップしました。

 

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