■安吾と居場所と自己反逆
眠ることから逃げる日を続けていたら、すっかり夜型になってしまって、朝方眠るサイクルみたいなのが形成されつつある。これで快適なら問題ないのだけれど、身体に問うと、そうでもないようなので、このところできる限り、眠ることから逃げない、を心がけている。親切な読者の方から勧められたサプリメントを試しながら。
うまくいくときとそうでないときがある。それもそのはずで、だいたい、いくら早くベッドに入ったところで、試験直前の学生のように、少しでも何かを頭に入れようと欲を出して本を読んだり、書き物をしたりするから結局、目が冴えて、階下の仕事場に降りることになってしまうのだ。
ベッドに入ったら目を閉じるようにしてみよう。そう決めて、このところあまり聴いていなかった坂口安吾の朗読を聴いている。
ある夜のこと。その日一日の精神のゆらぎが激しかったせいか、なにかいつも以上にこころもとなくて、寄る辺ないかんじで、ベッドに入った。おきにいりのパジャマ、香りをまとって、いつものように脚をていねいにマッサージしてから横になる。
「教祖の文学ーー小林秀雄論」を選んだ。これは40分くらいあるから、聴いている間に眠れるといいな。
ところが、その夜の坂口安吾は、特別だった。
暗記するほどに読んだエッセイであり、暗記するほどに聴いた朗読だった。
それなのに、私はひとつひとつの安吾の言葉に反応し、ああ、好きだなあ、っとこころから想い、泣いているのとは違うかんじで涙だけがとうとうと出てきて、あれは、なんだったのだろう、なにかとても居心地のよいものに包まれている安堵感があった。
このエッセイは安吾が41歳のときに発表したもので、文壇の寵児としてもっとも活躍していた時期にあたる。たしかに、このころの安吾の文章はとてつもないエネルギーにはちきれそう。
小林秀雄の文学論についての反論という形で展開されるこのエッセイは、相手が小林秀雄という巨人だからこそ、ちから加減せずに闘える、という安吾のひそやかな喜びも私には感じられる。言いたいことを言いたいように言っていて、それがたまらない。
今回、聴いていて、もうどうしようもなく胸がいっぱいになった箇所をたしかめたくて、久しぶりにぼろぼろになった文庫を書棚から取り出した。13篇のエッセイがおさめられている『堕落論』。
ちょっと長いけど引用。そうそう、ここだった。
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人間というものは、自分でも何をしでかすかわからない、自分とは何物だか、それもてんで知りゃしない。人間はせつないものだ。しかし、ともかく生きようとする、何とか手探りででも何かましな物を探し縋りついて生きようという、せっぱつまれば全く何をやらかすか、自分ながらたよりない。疑ぐりもする、信じもする、信じようとし思いこもうとし、体当たり、遁走、まったく悪戦苦闘である。こんなにして、なぜ生きるんだ。文学とか哲学とか宗教とか、もろもろの思想というものがそこから生まれて育ってきたのだ。それはすべて生きるためのものなのだ。生きることにあらゆる矛盾があり、不可欠、不可解、てんで先が知れないからの悪戦苦闘の武器だかオモチャだか、ともかくそこでフリ廻さずにいられなくなった棒キレみたいなものの一つが文学だ。
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あとは宮沢賢治の遺稿「眼にて言ふ」が好きだと言い、その詩を紹介したのちに、こう続ける。
(詩は以前に書いています。こちら)
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ほんとうに人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当たった奴でなければ、書けないものだ。(略)
何もわからず、何も見えない、手探りでうろつき廻り、悲願をこめギリギリのところを這いまわっている罰当たりには、物の必然などはいっこうに見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それがまた万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。
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あとはこのあたり。
作品を書くということについて、「外的偶然」を「内的必然」とする力について述べていて、モーツァルト、ドストエフスキー、チェーホフの名を出しながら、彼らの傑作も、どうしても書きたくて生まれたものというよりは、借金のため、外部からの圧力のため、というような「世間の愚劣な偶然あるいは不正な要求に応じてあわただしい心労のうちになったもの」である、と言う。
……そうなの。傑作って、そんななりゆきで生まれたりするものなのね。天才じゃなくても、近いことくらい起こりうるわよね。
私はそんなふうに自分を慰める。
そして次の箇所にまた胸がなにか熱くなり、涙があふれてならなかったのだ。
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一つの作品(の完成は)、発見創造と同時に限界をもたらすから、作家はそこにふみとどまってはいられず、不満と自己反逆を起こす。ふみとどまった時には作家活動は終わりであり、制作の途中においても作家をして没頭せしめる力は限界をふみこし発見にみずから驚くことの新鮮なたのしさによる。
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不満と自己反逆。限界。発見……。ああ……。
安吾の世界に、「なにかとても居心地のよいものに包まれている安堵感があった」と私はさきに書いたけれど、たしかにそうだったと、いまこれを書きながら確信する。
あのとき私は、自分の居場所はここにもある、まだある、と感じていた。
それは、じっさいには目に見えない、触れることもない、私のなかに内在するものだけれど、ここに、まだある、と感じられたことはすくいでもあった。
誰かのそばにいて、落ち着くことだってある。ここは私の居場所、と感じられる時間もある。
喧噪のなかにいて、不思議と落ち着くことだってある。タンゴの音楽鳴り響くなかでここは私の居場所、と感じられる時間もある。
けれど、そんな感覚になれることは、そんなに頻繁にはないことも知っているし、そういう感覚そのものを自分のなかに見失ってしまうことも、こちらは頻繁に、ある。それも知っている。
だからこそ、そういう感覚、居場所を感じられるような感覚をもてることが、私にとっては、思いがけないプレゼントのような、そのくらいうれしく愛しいこと、それを書き残しておきたかった。
苦闘中の原稿の締め切り、つぎの仕事の準備、と精神的な多忙さは終わることなく、ぜいぜい。息切れしてきたよ。
これを書いている時間すらも気になるけれど、書きたい気分になったときに書いておかないと、書かないまま終わってしまうことも、また知ってしまっているものだから。
■私が大好きな安吾、路子ワールドの検索ワードに「安吾」って入れてみたら47件ヒットしました。ご興味ある方はぜひ。
アナイスの100件には負けるけど、なかなかの数だと思うの。
そんなのやってられない、という冷淡な方(涙)はせめてこちらを。朗読の情報もありますので。↓
写真について。お友達のご結婚のお祝いにあるものを贈りましたら、「お返し、なんて叱られそうですけれど」という言葉とともにいただいた、以前から憧れていた美しいボトルのワインと安吾。