■緊急事態19日目。善良な人とカタルシスとペコちゃんのマスク
自粛要請のなか、営業しているお店、公園で遊んでいる家族などへの暴言、そんなニュースを見聞きする。
ハンナ・アーレントの「悪の凡庸さ」という言葉を、そのたびに思う。
「自分は自粛しているのに」って、していないひとを非難している人は、悪人ではない、たぶん、普段は「凡庸」なひとなのだろう。
ゴッホが南仏でエキセントリックな言動をとったとき、その地の住民は、役所に嘆願書を送った。彼を収監するように、という嘆願書だ。いまは、その内容はどうでもいい。私が言いたいのは、その嘆願書には「善良な市民より」と書かれていたこと。
善良! 自分を善良って言うひとたち!
私がこわいのは「悪人」と言われる人より、「自分を善良な市民と言えるひと」だ。
感染したひとを責めるひとたちもいる。
よくわからない。責めているその瞬間、自分も感染しているという可能性をどうして考えないでいられるのだろう。
芸能人が不倫だかなんだかしたときに、責めるひとたちと似ている。自分にもその可能性がある、とどうして考えないでいられるのだろう。
憤っているのではない、こんな世の中で、このような状況のなかで、いかに自分の軸を保つか、そんなことを考える。
昨夜、隣のお花屋さんが閉まる直前にかけこんで百合を買った。
私は薔薇が好きだけれど、百合も好き。
私のなかでいつも薔薇はマグダラのマリア。百合は聖母マリア。
百合のほうが、淫らだ。その芳香と雄蕊雌蕊がたまらない。
雄蕊を私は早めにとるけれど、そのたびに、ごめんね、とこころで呟く。
お花屋さんのご主人に、開いているのと蕾、どちらが多いのがいいですか、と問われ、蕾、と答える。これから花が開いていく様子を見たいから。
夕刻、いつものように娘から「スーパーマーケット行くけど、何か買ってきてほしいものある?」と聞かれ、「今日は一緒に食事したいなあ。私のぶんも作って」と(ダメモトで)言う。
「今日はお刺身にしようかと思ったけど、好きじゃないよね? じゃあ、しゃぶしゃぶにしようか」
「(やったー)お願いしまーす」
ということで、久々に一緒に食事をした。
いつもは別のフロアで、それぞれのペースで仕事、食事をしているものだから、新鮮だった。会話は、センパイである娘にオンライン・サロンのあれこれや、動画の編集の仕方などを私が尋ねる、というかんじ。大好きだから一緒にいるだけで充分なんだけど。
食後は、公式サイトで始めようとしているあれこれに集中。
それから、茨木のり子が読みたくなった。なぜだろう、百合のせいかな。
『詩のこころを読む』。
これは「岩波ジュニア新書」。わかりやすい言葉でどれだけものごとの本質を書くことができるか、それを証明してみせたような一冊。
茨木のり子は、以前、山本直子さんをお迎えして、路子サロンで、茨木のり子をテーマにしたこともあり、ずいぶん、彼女の詩や伝記を読んだ。
そして今日。久々にふれる茨木のり子の言葉は、やはり美しかった。
以前にも書いているけれど、さいきん、お友だちに話した、「カタルシス」についての箇所をもう一度じっくり読んだ。
石垣りん の「くらし」というタイトルの詩について語っている箇所。
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「くらし」が生きものの持つあさましさをテーマにしながら、読み終えたあと一種の爽快さにひたされるのはなぜなのか。おそらくこの詩の中に浄化装置がしこまれていて、読み手がここを通過するさい、浄められて、思いもかけない方角へ送り出されるからだとおもいます。
浄化作用(カタルシス)を与えてくれるか、くれないか、そこが芸術か否かの分れ目なのです。だから音楽でも美術でも演劇でも、私の決め手はそれしかありません。
この本でとりあげた作品は、すべて、それぞれの方式のそれぞれの浄化装置をかくしていて、かなしくなるくらいの快感を与えてくれたものばかりです。
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声に出して読んでみる。やはり美しい。
「かなしくなるくらいの快感」。ああ。
美しい文章は、朗読したときに音楽をかんじる。
今日は、もう一箇所がとても響いた。
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人生体験といえるほどのものをもっていない若者でも、少し敏感な人なら、自分の喜びがしばしば他人の悲しみの上に立っていることに気づかずにはいられないでしょう。合格の喜びが不合格者の悲しみの上に、得恋の喜びが誰かの失恋の痛手の上に立っていたりすることに。
それを考えると身動きできずいじけてしまいますが、それもまたみっともないことで、自分もまたある時は誰かに食われる存在であると思って、せいいっぱい生きるしかありません。
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こんにちのコロナ禍、このくだりがほんとうに響く。
「せいいっぱい生きるしかありません」。
これにつきる。
ブログ言葉美術館、「茨木のり子」で検索したら19件あった。
そのなかから。
今日は一歩も外に出なかった。
お昼前に起きて珈琲を飲んで、原稿を書き、公式サイトのあれこれをして、夕食、それから原稿を書き、本を読み、メモをとり、公式サイトのあれこれをして、このブログを書き始め、いま1時半をまわった。
1日があっという間。時間がもっと欲しい。いまはやりたいことであふれている。
今日は最後にお気に入りの写真を。
マスク姿のペコちゃん。
私は、その昔、といっても30歳くらいまで、ペコちゃんに似ている、と言われることが多かった。
「ぺろってしてみて」とよく言われた。ほっぺがペコちゃんだったから。いまは、げっそりこけてるけど。
なぜか娘もペコちゃん好きで、好きだからという理由だけで高校生のころ不二家でバイトしてた。
たまになにか共通項があるのよね。全体的に、ぜんぜん違うのに。
このマスク欲しいよねえ、ってとこもおんなじだった。