◾️瞳の奥にあるもの
2018/01/22
「目を見せて」と言われて、はじめてそのひとの目を見たように思う。
私はひとと目を合わせるのが苦手で、そのときの精神状態、そのひととの距離感、その場の空気などが一致したなら、はじめて会ったひとでも目を合わせて話せるときもあるのだけれど、たいていは、視線をそらしてしまう。
人見知りのひとつの現象なのかもしれないけれど、やはり自信がないこと、あるいは、自分を見せることの抵抗があるのかもしれない。
目を見せて。と言われたときも、私はすぐにそのひとの目を見ることができなかった。ためらいのあと、そのひとを見た。そのひとの目を見た。はじめてそのひとの目を見たように思ったのは、そのひとの瞳の奥底をのぞきこんだ、という意味だ。何度も会っているひとなのだから、目を見たことがないはずはない、けれど、瞳の奥をのぞいたことはなかった。そこには深い慈愛と孤独があり、私は胸をうたれた。そのひとは、私の瞳の奥に何を見ただろう。何も言わなかった。
あなたの瞳が好き、と率直に言ってくれたひともいた。瞳が雄弁だ、いろんなことを語りかけてくる、と言ってくれたひともいた。目が好き、ずっと見ていたい、と言ってくれたひともいた。
過去に想いをはせれば、私の目、私の瞳についてよく語ったひとは、私のことをたいせつに、私の内面を愛してくれたひとたちだった。違う愛し方をしてくれたひともいたのだろうけれど、冷静に考えれば、そういうひとたちは私の形を愛していたように思う。
女性のどこを見る? という質問に「目」と答えたひともいた。からだのどこかの部分ではなく、目、と答えたそのひとに私はたずねた。目の造形? そのひとは言った。目の奥です。
それを聞いて私はエリュアールの詩の一説を思い浮かべた。
「あたしの瞳のおくから あたしをひきぬきたいのでしょう」
見つめ合うだけで何時間も過ごせたひともいた。互いに瞳の奥底をのぞきこみ、そこにあるものを知りたいという欲求だけで時が過ぎてゆく。
そんな時間を美しく表現したエリュアールをまた想う。
「ふたつの鏡のあいだの すみきった信頼」
そのひとを見ると必ず目が合う、というひともいた。そのひとはいつだって私のことを見ていた。
たまらなく愛していたけれど、思い浮かぶのはいつもそのひとの横顔、というひともいる。
きっと私がいつもそのひとを見ていて、そのひとは別のところを見ていることが多かったということなのだろう。けれど、私はそのときそれでも満たされていた。
愛される悦びと、愛する悦び。
そのひとに対して私は愛する悦びをいだいていたのだと思う。
見つめ合う行為は甘美だ。
けれど、誰かを見つめるという行為は……、と考えて、
「何かを見つめるということは、このうえなく孤独な行為のような気がした」
中田耕治の「誘惑」なかの一文が浮かぶ。
誰かを見つめ、けれど、そのひとは私を見つめていない。そのときの私を、もうひとりの私が客観的に眺めたなら、たしかに、孤独の粒子につつまれていることだろう。
それは甘美ではない。
けれどいまの私は、甘美ではなくったって、その時間すら貴重だと思う。見つめたい存在がいるということ。それは恋愛にかぎらず、ただそれだけで、そう、見つめたい存在がないよりも、たぶん、心の空洞が小さくなるような気がするから。
エリュアール、中田耕治、について書いた記事、ご興味あればぜひ。